「もし、幸運にも、青年時代にパリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」。
ヘミングウェイの有名な一文は「パリで暮らす」を「パリに滞在することがあったら」に置き換えても十分に郷愁の念がわく。
中学生のとき、地方のデパートで開かれた佐伯祐三氏の絵画展を見てパリに強烈な印象を持った。それ以来パリは長年の憧れだった。パリに居ればいい文章が書けそうな幻影もあった。
初めはNHKラジオの夜11時台にある「フランス語会話」からだった。その頃のテキストは左ページに4コマ漫画と会話があって、右ページに文法などの解説があった。あるときCitron Presséという飲み物が出てきて、講師の先生が二日酔いに良いと述べていた。言葉の感じからレモンの搾りジュースとは想像できた。
35年以上昔、コペンハーゲンで開かれる世界肺癌学会に夫が参加するため、当時私は大学病院の麻酔科に勤務していたが、私も参加するという理由で仕事を休んで、初めて夫と私の両親でヨーロッパを旅行した。まだソ連の上空が飛べず、アラスカ経由でフランクフルトに降りた。そこから最終目的地のコペンハーゲンまで鉄道の旅をした。初めての海外旅行に心は常に弾んでいた。5月の末で緑が美しく、ヨーロッパはリラの花が咲き乱れていた。ジュネーブでは晴れて気持ちが良く、モンブランがはっきりと見えた。
ジュネーブの街を散策し、メインストリートのローヌ通りの路上のカフェのテーブルに、皆で座ってお茶をすることにした。若いあんちゃんがやってきて注文を取った。ラジオ講座を思い出し、「シトロンプレッセ、シル ヴ プレ」と言った。
「?」
もう一度「シトロンプレッセ」と言った。
「???」
「r」が2箇所ありそれが通じないのでは、と思い、シトフォンプレッセとかシトオンプエッセとか、主人も加わって、イントネーションをあちこちに移してシトロンプレッセとしばらく言い続けると「ああ、ひょっとしてCitron Presséね」とやっと理解してもらえた。運ばれてきたものは水の入ったガラスのコップと別の小さな器にレモンの搾り汁があり、自分で適当に混ぜて飲むようになっていた。すっぱさは忘れたが、これが二日酔いに効くレモン搾り汁か。
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