相良知安の恩師佐藤泰然が逝去したのは明治5(1872)年4月10日だった。享年69。喪主の佐藤尚中によって盛大な神式葬儀がおこなわれ、1000人を超える人々が線香をあげにきた。知安も焼香の列に並んで佐倉順天堂を創立した偉大な蘭方医の棺に手を合わせた。
それから2カ月後の6月21日、「山内容堂侯が他界された」と部下の石黒忠悳が知らせてきた。山内容堂は1年前にも脳卒中をおこしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていたが、このほど脳卒中が再発して46年の生涯を終えたのだった。
この年の8月3日、知安は第一大学区医学校と改称された大学東校の校長に任命され、文部省の初代医務課長も兼務することになった。知安の同僚だった岩佐 純と石黒忠悳が文部省に何度も掛け合って大学東校揺籃期からの功労者である知安を栄進させたのだ。
翌明治6(1873)年3月、文部省の医務課が昇格して医務局となり、知安は初代の文部省医務局長を仰せつかった。
「知安さんはすでに『医制略則』と題する医事制度の試案を起草なさいました。あれを完成させて国の医事制度の大本を築いてください」。石黒からそういって励まされ、仕事に取り掛かった。
『医制略則』の書き出しには苦心した。
推敲を重ねたあげく、「第一章 全国ノ医制ハ之ヲ文部省ニ統フ」とした。そして「文部省に医務局、保健局を設置して医学校と病院を統括すること」、「外国人教師、医師、産婆、薬舗(薬剤師)、医務監督の権限と役割を定めること」、「医学校では解剖・生理・病理・薬理の基礎学科と内科・外科などの治療学を学ばせること」、「医師に開業試験をおこない免許を与えること」など全部で85章の草稿をしたためた。
知安がさんざん赤字を入れた草稿を読みふけった石黒は、
「この『医制略則』85章で今後百年のわが国の医療大綱が定まりました」
と絶賛せずにはいられなかった。
しかし、尊敬する知安を文教の中枢から追放するたくらみが着々と進んでいたことに、石黒はまったく気づかなかった。
残り1,444文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する