「奥州白河藩に仕える蘭学者の石井庄助殿がフランソワ・ハルマの蘭仏辞典を底本に大雑把な蘭和辞書の訳稿を作成された。手前は目下これをもとに辞書の編纂をすすめている最中じゃ」
稲村三伯はそういって頭頂の凹んだ禿髪をなでて微笑した。高い鼻柱に黒い顎鬚を蓄えた温厚な人柄だが、繊細さとふてぶてしさが同居する気質も見え隠れした。
玄真は膨大な仕事を前にして張り切り、三伯もまたとない助手を得て満足気だった。2人は終日筆をおく暇もないほど翻訳事業に没頭した。不明の単語に出合うと心当たりの蘭学者を訪ね歩き、ときには1つの単語をめぐって数十人の蘭学者の門を叩くことさえあった。
仕事の合間に玄真は三伯と盃を酌み交わしながら、「やつがれは放蕩のために杉田家を離縁されました」と、その経緯を正直に語った。ききおえた三伯は「わしも昔から気分の高揚と鬱の虫にとりつかれて我ながらもてあましておる」といいだした。弱気のときは悪口をいわれると頭にこびりついて苦になる。改まった席では尿意や便意がこらえきれない。強気の時期は気分爽快で気力にあふれ大胆にふるまいすぎて周囲をまどわせる。「うつ気と爽快の波が半年から1年交代で繰り返すので、おぬしに迷惑をかけるやもしれぬ」
さいわい蘭和辞典に専念している間はさしたる気分の変調もなく、玄真は翻訳の手伝いを無事に終えることができた。
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