「あの変人は夜遅くまで灯りをつけて蘭文を訳しているかと思えば昼間はいつまでも起きてきません。書棚の洋書を引っ張りだして部屋のあちこちにつみあげたり、オランダ文を大声で読みながら部屋中をぐるぐる回ったりします」
まもなく玄沢の許に甫周がやってきた。
「桂川家はこのところ官の御用が重なり、医業も多忙をきわめております。玄真が本来志している蘭学修業を当家で達成するにはなにかと支障があります」
甫周はこれ以上玄真の面倒がみきれません、と体よく断ってきたのだ。次の寄寓先をみつけるため玄沢は師の杉田玄白の許へ相談にいった。
そのころ玄白は『解体新書』を出版して江戸中に名が売れ、日本橋浜町の医塾も患家が急増していた。玄白は学者というより実利を重んずる俗界の人だった。小浜藩医として拝領金(俸給)が毎年60両から70両(約700万円)あり、患家の薬礼(診療代)も年々増えて天明年間には年300両あまりに達していた。とはいえ蘭学の志を忘れたわけではなく、『ハイステルの外科書』の翻訳に着手していた。同書の中の「金瘡(切り傷)・瘡瘍(腫れ物)」の草稿も数巻できあがったが、その間に体調を損なった。
「当分なにもせず養生に専念されては」と周囲に諫められ、本人も老いの身を自覚して翻訳を中断していた。
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