地球が疲弊している。医療が行き詰まっている。
科学の進歩とともに、寿命が延びた。幸福を感じることができるのは、生きてこそ、であり、行き詰まっているからといって、100年前の状態に戻ることが正解とは感じられない。
持続可能な社会における医療制度を考えると、医療はその目的から見て、無駄を排除する必要がある。また、それぞれの医療行為の本質的な目的に応じて、医療にかかるコストの応分負担を考慮する必要がある。
医療の目的とは何であろうか。世界保健機関設立時に示され、1999年に再度話し合われた健康の定義がそれかもしれない。診療現場においては、個々の患者が持つ健康観や幸福感と、自らのイメージをすり合わせながら、診療を行う。政策現場では、一定の集団=国民の総体としての健康観や幸福感とのすり合わせが行われる。
この目的に沿って医療を整理したとき、その提供に関わるコストを、保険者、政府、自治体、患者で、どのように応分負担をするべきなのか、「そもそも」の制度論から考える必要がある。
真に命に関わる診療行為においては、できるだけ公的に負担するべきであろうし、好みが影響するような診療行為においては、患者自身の応分負担があってしかるべきかもしれない。貧困や経済状況が理由で診療に制限が生じないように、患者の所得によって加減が加えられるべきであろうし、地域による価値観の違いが生じる場合、自治体の割合が増え、より核心部分の医療においては、政府や保険者による負担が正しいのかもしれない。とはいえ、地域格差はできるだけ避けたい。
日本をはじめ先進国の医療制度は概ねこのような制度にはなっているものの、今後の社会を考えた際に、共通して考える点がある。それは、患者負担がまったくゼロになることで、科学の進歩とともにうなぎ上りになっている、その診療行為に一体どれくらいのコストがかかるか、ということが見えない。そういう観点では、貧困や経済状況が理由で診療に制限が生じない程度の自己負担を設けることが必要なのかもしれない。