わが国の西洋医学史に燦然と輝く江戸時代の蘭学者大槻玄沢を紹介する。
私の所属する東北大学大学院医学系研究科・医学部の沿革は、1736年、第5代仙台藩主伊達吉村により開設された仙台藩学問所(後の養賢堂)にまで遡り、1760年にここで医学教育が開始された。
そして1789年、仙台藩の藩医に就任したのが大槻玄沢である。
玄沢は、父も藩医でオランダ流外科医であり、13歳から郷里一関で医師建部清庵に師事していた。22歳のときに江戸に出て、清庵の紹介で杉田玄白に医学を学び、前野良沢にオランダ語を学んだ。『解体新書』はたいへん有名であるが、誤訳も多かったため、玄白の命を受けた玄沢はその改訂版の作成に着手した。玄白は完成した『重訂解体新書』を目にして喜びの声をあげたという。また、玄沢は日本初の西洋外科医書『瘍医新書』を完成させ、西洋外科学導入の基となった。
1822年には仙台藩医学館に日本初の西洋医学講座が開設され、多くの著名な医師・蘭学者を輩出した。
玄沢は、さらに私塾・芝蘭堂で多くの人材を育成し、蘭学の普及・発展に大きく貢献した。この流れを汲む福澤諭吉は以下のような言葉を残している。
古流の医師たちが難治の症に遭へば、手をこまねいて死を待つしかない。しかるに、大槻先生の医論では、人間の諸器官の形態・機能を知った上で、よく観察し、原因を究めることで、100種類もの病変を前にして、疾患が危険か危険でないか、治療が可能か否かが判断できる。医師の技術の巧拙を論ぜず、智の早晩、才の長短、経験の深浅に関係なく、医師ならば誰でも過誤なく対処できる。「今我、洋学の先人大槻玄沢先生の卓論を見れば感嘆の外なし」。
1871年に医学館は廃止されたが、西洋医学の研究教育の蓄積はその後も受け継がれた。清庵、玄沢により東北に発した西洋医学の源流は大河となって今に連なる。
ちなみに、玄沢の孫の文彦は、日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として有名で、私が卒業した宮城県仙台第一高等学校(前身の宮城県尋常中学校)の初代校長でもある。