どかーん、と耳をつんざく爆発音が周辺の空気を震わせた。
海軍軍医総監の高木兼寛は思わず身をすくめた。
そこは霞ヶ関の外務省表門の門前だった。1台の馬車が傾いて硝煙が立ちこめている。
血まみれの怪我人が門番たちに抱えられて庁舎に運び込まれるのを兼寛は目撃した。暴漢に手榴弾を投げつけられて重傷を負ったのでは、と思った。
明治22(1889)年10月18日のこの日、兼寛は馬車に乗って赤坂葵町の海軍省へ戻る途中、偶然事件の現場を通りかかったのだ。
時刻は午後4時5分、と懐中時計をたしかめた。急いで馬車を降りると、「近くで待機しておれ」と馭者に申し付け、吸い込まれるように外務省の庁内に入った。
廊下で見張っていた事務官たちに名前と身分を告げると、彼らは一礼して応接間のドアを開けてくれた。
長椅子で呻いていたのは見覚えのある外務大臣大隈重信侯だった。
鮮血に染まったズボンがボロボロに裂け、右の下腿が不自然に捩れていた。火薬の臭いが漂い、爆弾で右脚がぶらぶらになったのは確かだった。
先ずは止血を、と事務官から革バンドをもらい、右の大腿を緊縛した。ついでハサミを持ってこさせ、ズボンを切り裂いて患部の状態を診た。
右の膝窩部直下に大きな爆創があり、そこから下腿筋と脂肪がグニャリとはみ出していた。脛骨上端の骨質は破壊され、上方は膝関節面に達し、下方は脛骨の中央まで達していた。右下腿内果にも爆創があり、距骨面が露出していた。
まもなく救急箱が届いたのでモルヒネ1筒を注射した。そこへ外務省の補佐官があたふたと駆けこんできた。血にまみれた大臣の姿を見るなり胆をつぶして、
「こんなところで大臣の治療はなりません。すぐに帝大病院へ移しましょう」
と唇をふるわせる。
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