明治15(1882)年7月23日、李朝王都の漢城(現・韓国の首都ソウル)で反日派の兵士と民衆が暴動を起こした。
反日派兵士は清国の威力を背後に、宮廷に滞在する日本の軍人教官を殺害して王宮を囲んだ。
暴徒の一部は日本公使館を襲撃して火を放ち、公使らは辛うじて済物浦(現・仁川)に脱出した。
日本政府は公使館を保護するため《比叡》、《金剛》、《筑波》の3艦を済物浦に出動させた。
これに対峙するごとく清国の汀汝昌提督の率いる巨艦《定遠》と《鎮遠》が済物浦に姿を現し、仁礼景範少将を司令官とする日本艦隊とにらみあった。
海軍当局は急きょ品川に停泊する海軍最大の軍艦《扶桑》を済物浦に出動させるべく準備を開始した。
このとき《比叡》の軍医長から海軍医務局に送られてきた電文に目を通した戸塚文海医務局長と副長の高木兼寛は戦慄した。
「日本艦3隻ニ脚気患者多発シテ戦闘不能状態ナリ」
しかも、酷暑の時期とて品川の《扶桑》からも乗組員の2/3が脚気に倒れ出港できぬ、と連絡してきた。海軍医務局一同は寝る間もなく対応に追われた。
さいわいといおうか、清国海軍の汀汝昌提督はただちに海兵を漢城に派遣して反日派の暴動を鎮圧させた。
そして事件から1カ月後の8月30日、日清両国は「済物浦条約」を調印して事態を収拾させたので、海軍医務局一同はようやく胸をなでおろした。
「壬午の変」と呼ばれたこの事件を契機に、兼寛は戸塚局長とともに麻布狸穴の川村邸を訪れた。
広い洋間で川村純義海軍卿に面会した兼寛は、戸塚局長に代わって用件を述べた。
「毎年夏になると海軍兵士の多くが脚気に倒れております。今回の済物浦のごとき一朝事がおこれば重大な危機に陥りかねません。これぞ看過できぬゆゆしき事態です。いまこそ脚気予防のために帝国海軍の糧食改良をはからねば兵員の健康と勇猛さを保ち、海軍の職務を全うさせることはなりません」
だが、川村海軍卿は口許をゆがめて濁声で言った。
「おはんは長年の食習慣である米飯をパンと肉食に改めよというのだな。しかし、兵員の3度の食事を変えるのは一朝一夕でできることではない。海軍の経理上からしても糧食改良は難しい」
しかし兼寛はあきらめず、粘っこく頼んだ。
「では、脚気病の予防対策を計るため、海軍内に脚気病調査委員会を設けて頂きたい」
兵食改善を実現する手段として委員会開催を突破口にしようと考えたのだ。
海軍卿はしぶしぶ承知して真木長義海軍少将を筆頭に軍医・主計などの幹部を委員とする脚気病調査委員会を発足させた。
そのひと月後、兼寛は「食料改良の儀」と題する委員会案を川村海軍卿に上申した。案文には、「本年9月以来各艦と船営の食料を調査したところ、その粗悪かつ量の不足は顕然としており、
今兵員各位に支給する食卓料はすべて現物支給して消費させるべきであります」と記した。
海軍卿からはなんら返答もなく、やきもきしていた明治15年11月29日の朝、兼寛に海軍卿から思いがけない命令が下った。
「すぐさま参内して天皇に拝謁するように」という召請である。
突然の朝命に兼寛は胆をつぶした。
なぜ天皇の謁見に呼び出されたのか皆目見当がつかない。
それでも妻の富子に手伝わせ、大急ぎで身なりを整えて川村海軍卿とともに馬車に乗って赤坂御所に参内した。
控えの間で待つあいだ川村海軍卿は手短に事情を語った。
「戸塚文海局長が申すには、先日戸塚局長が有栖川宮威仁親王の許に伺候して、英国留学から無事帰朝された寿ぎの挨拶に伺ったそうじゃ」
威仁親王が天皇の命で海軍兵学寮に入学した後、グリニッジ海軍大学校に留学されたことは世間でもよく知られていた。
「その際、戸塚局長は親王から海軍兵士の脚気病は現在どうなっているか、と訊ねられた。あいかわらず兵員の間に脚気が多発しており、責任者の高木兼寛医務局副長が海軍兵食を改良するのが最善の予防策なるも予算などに問題があり対策に手間取っている、と申し上げると、では、高木を宮中に呼んで実情を奏上させよう、と親王は仰られたそうじゃ」
兼寛はなるほど、と納得した。
――おそらく戸塚局長は、川村海軍卿ら海軍省上層部が兵食改善に逡巡している状況を懇意の威仁親王に伝えたのだろう。それで威仁親王が天皇に拝謁され、海軍の脚気対策案を奏上する機会を与えてくださったのにちがいない。まことにありがたいご配慮ではないか。
明治天皇にはかつて脚気病をわずらわれ、その折、石黒忠悳陸軍軍医監らの主導で漢方医と洋方医が脚気の治療成績を競う脚気病院が開設された。一時は世間の耳目を集めた脚気病院だが、5年経ってもさしたる成果があがらず、天皇も洋食や麦飯などをきこしめして回復なされたので、病院はうやむやのうちに閉院されたのだ。
――そういえば、ナイチンゲールもヴィクトリア女王に拝謁して病院の環境整備や患者の食事改善を実現させた。自分もこの機会に臆することなく脚気対策を奏上しよう。
ほどなく侍従に呼ばれた兼寛は海軍卿のあとに従って御座之間に入り、直立不動の姿勢で待機した。
やがて脇扉から威仁親王と伊藤博文内務卿が現れ、やや間をおいて明治天皇が正面の帝座に着座された。
ひと呼吸おいて威仁親王が兼寛に目をむけ、「帝国海軍の脚気病対策についてその方が信じるところを奏上いたすように」と、若々しい声をひびかせた。