No.4906 (2018年05月05日発行) P.24
二木 立 (日本福祉大学相談役・大学院特別任用教授)
登録日: 2018-05-07
最終更新日: 2018-05-07
植松治雄日本医師会元会長が本年3月7日に86歳で死去され、4月15日に大阪で「偲ぶ会」が催され、私も参列しました。会では、茂松茂人大阪府医師会会長と横倉義武日本医師会会長が、植松先生の大きな業績として、小泉政権の絶頂期に混合診療解禁反対の国民運動を組織して、全面解禁を阻止したことをあげられました。私も同感ですが、その後14年の歳月が流れているため、知らない方も多くなっています。そこで、今回は、この点を回顧し、植松先生への追悼に代えたいと思います。
日本の保険診療では原則禁止されている混合診療(保険診療と自由診療の併用)の解禁は、2000年前後から、政府関係の組織でも提唱されるようになりました。小泉純一郎内閣の閣議決定「骨太方針2001」には、初めて「公的保険による診療と保険によらない診療(自由診療)との併用に関する規制の緩和」が盛り込まれ、混合診療解禁論争が生じましたが、2003年の閣議決定「医療保険制度体系及び診療報酬体系に関する基本方針について」では「特定療養費制度の見直し」に落ち着きました。
この流れを一変させたのが、2004年9月10日の経済財政諮問会議での小泉首相の「混合診療については、既に長い期間議論を行ってきている。年内に解禁の方向で結論を出してほしい」との指示です。
その後12月まで4か月間、政府内外で混合診療論争が一気に燃えさかりました。
小泉首相の指示の背景には、同年8月の規制改革・民間開放推進会議「中間とりまとめ」が、「通常の保険内診療分の保険による費用負担を認める、いわゆる『混合診療』を全面解禁すべき」と提起したことがあげられます。同会議やその前進の総合規制改革会議が「全面解禁」を提起したのは初めてです。
当時は小泉政権の絶頂期であり、医療関係者の間に、混合診療が今度は解禁されるとの危機感やあきらめが拡がりました。