日本の紙幣が2024年度上期をメドに刷新されることとなり、新千円札の図柄に北里柴三郎(1853-1931)が採用されることが決まった。 世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功、血清療法を確立するなど世界の予防医学発展に大きく貢献し、第1回ノーベル医学生理学賞の有力候補にも挙げられた北里柴三郎。国内では慶應義塾大学医学部、伝染病研究所、北里研究所の創設、日本医師会の設立など医政活動・社会活動に幅広く携わり、後進の育成にも尽力した。 日本医事新報アーカイブズより、北里博士の訃報を機に偉業の数々を報じた1931年(昭和6年)6月20日号の記事「我邦医政界の大御所―北里男爵薨去(こうきょ)せらる」を再録し、「日本近代医学の父」の足跡をあらためてたどる。(表記は新字・現代仮名遣いに変更)
我邦医政界の大御所
一両年前に咽喉を害(いた)めた北里博士は、それ以来いかなる会合の席でもほとんど無言のままで押し通した。主宰する日本医師会の総会でさえ北島理事長をして挨拶文を朗読せしめて一言を発しなかったほどで、従って持前の癇癪玉を破裂させて人々を驚かせた往時の面影は見られなかったが、それでも生来の旺盛な精力は老来いよいよ矍鑠たるものがあり、毎朝五時には必ず離床せられ、養生園の診療に従事し北里研究所を巡視せられておったことは知る者の等しく敬意を表したところである。
しかるに、突如、真に突然、我らの耳を驚かせたものは、十三日早朝北里博士逝くの飛報であった。
夜来の雨止んで初夏の空は青藍色に晴れた十三日の朝、日常必ず五時前に起床する博士が、七時となるも起きられぬを不審に感じた家人が博士の寝室を覗えば、近来頓に瘠痩(せきそう)せる老身を床上に横たえて既に全く絶息せる有様に喫驚した家人は、四方に電話して急を告げたが、時既に遅く脳溢血のため我邦微生物学の権威、世界的学者として知らるる北里博士の霊魂は永遠に天国へ飛び去ってしまったのであった。
既に八十歳の高齢であったとはいえ、精力絶倫なる博士は、一日として職務を廃することなく、死前二日の十一日も例のごとく養生園並びに北研を巡回されていた博士の訃報を聞こうとは誰が予想し得たであろう。人生朝露のごとしとはいえ、はかないものは人の命である。