高野長英が薩摩往きを断念した島津藩の内紛、つまり長男斉彬と異母弟忠教(久光)の後継者争いは、薩摩家老調所笑左衛門が服毒自殺を遂げた後も続いた。
藩主島津斉興の側室お由良は忠教を跡継ぎに擁立するようしきりに斉興に迫った。
そのさなか、斉彬の長男寛之助が嘉永元(1848)年5月に病死した。翌年6月には次男の篤之助が重病に斃れた。あいつぐ子息の夭折に、「お由良様が呪詛をかけた」「お由良様がわが子を世継ぎにするための仕業じゃ」といった噂が城下にひろまった。
斉彬擁立派がいきり立ち、あろうことかお由良と忠教の暗殺をくわだてた。だが計画は未然に発覚した。
激怒した薩摩藩主斉興は、
「謀議にかかわった者どもを残らず厳罰にいたせ」
と申しつけ、嘉永2(1849)年暮、斉彬派の家臣40数名が磔刑、切腹、遠島に処された。
薩摩藩の大騒動を知った福岡藩主黒田斉溥(島津重豪の4男)は急きょ中津藩主の奥平昌高(重豪の次男)と八戸藩主の南部信順(重豪の14男)を呼び集めて善後策を鳩首した。
「甥の斉彬は宇和島藩主の伊達宗城侯と親しい」
「開明派の宗城侯は老中阿部正弘侯と懇意にしている」
「正弘侯と斉彬は蘭学の同志でもある」
かくして3兄弟は伊達宗城に調停を依頼することにした。
「将軍家の舅筋に当たる薩摩藩じゃ、なんとか穏便に済ませたい」
宗城はそういって老中の阿部に頼んだ。阿部も薩摩に貸しをつくるよい機会であると考えて承諾した。
嘉永4(1851)年、公儀は藩主斉興を隠居させ、家督を嗣子斉彬に継がせるよう裁可した。かくして「お由良騒動」(高崎崩れ)と呼ばれた大事件はここに決着をみた。
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