「長英さんは天下国家を論ずる傑物だが金銭にはまったくだらしない。これまでも懐が寂しくなるとわしの所へ無心にきた。わしも蘭書の翻訳などで援助したが、あまりに無心が頻繁なので、この度はすげなく断った。すると、わしのことを守銭奴だと罵りおった」
伊東玄朴は細い眉をしかめてそういった。
信道も玄朴の医塾で長英に会ったことがある。長英は初対面の信道に、「おぬしも医学の狭い世界に閉じ籠らず、広く西洋文化に眼をひらくがよい」などと威勢よく話した。長英の主張に異論はなかったが、自分は水で相手は油、信道には長英のように人目を愕かすような世渡りは到底できない。西洋兵法の翻訳にかけては抜きんでた偉才だが、自分とは志も生き方もまったく異なり、違う世界の人だと思った。
信道の親友岡 研介も鳴滝塾で学び、シーボルト事件がおこると一時周防(長州)へ帰郷した。その後は大坂の開業医斉藤方策の医院に留まり、いっかな江戸へ出てくる気配がない。
やきもきした信道は天保元(1830)年に 「お互い、久しぶりに会おうじゃないか」と研介に催促の手紙を書き送った。ついでに江戸蘭学界の現況も書き加えた。
「江戸の洋学家、無数御座候えども多くは山師俗子のみにて1人も取るに足り申さず。在職有力者の中にも大いにその説に心酔する者、往往御座候えども、なにぶん肝心の学者に出色の人物無く、ただ一時の虚名と小利をむさぼる鼠輩のみ」
信道は訥弁だが、文章ともなれば思いのままに筆が走る。つづいて在府の蘭学者を存分にあげつらった。
「宇田川老人(玄真)は著書を以って天下の医者を導く了見にて一向に療治も教授もせず、藤井方亭は官事忙々にて殊に大志も之れ無く、湊 長安は一個の流行家とならんと欲し、伊東玄朴は病弱にて雄志立ち難し。青地林宗は隠逸を愛で世味を厭い教授も好まず、ただ自家の読書に兀々たるのみ。大都の中央に出で赤幟を立て、四方の士を待つという人物無く御座候」
江戸はこんな有様で長大息に堪えない、と記してから、「若手の指導と教育に挺身するのは手前だけである」と結んだ。
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