団塊の世代が後期高齢者になる2025年に向けて国は在宅医療を推進している。制度が整っていない時代から在宅医療に取り組んできた先達の医師の軌跡をたどりつつ、今後の在宅医療の方向性を探った。
【草場】 地域の診療所で16年間、家庭医という立場で働いている草場でございます。私が在宅医療を始めた16年前に、既に先駆的に在宅医療をされていた大先輩がたくさんいらっしゃいます。それが今日お話を伺う大澤先生、新田先生です。
お2人がなぜ在宅医療に着目し、そこに入られたのか、私の中では実は不思議な部分もないわけではないのです。開業というと外来をやって、必要であれば往診はするけれども、在宅医療を1つの枠組みとして提供していくというのは、当時は極めて珍しかった気がします。まずは在宅医療に至るまでの道のりをお2人からお伺いしたいと思います。
【新田】 私は消化器外科医で、病院で消化管、肝臓がんの手術等を行っていました。当時は手術の対象が早期がんよりも末期がんが多く、必ず再発して入院してくる。モルヒネ等がなくペンタジンくらいしかない時代で、大変苦労して看取っていました。
その時に疑問を感じたことで「果たして私達が戦後行ってきた病院医療とはいったい何だろうか」と考えたのです。バイト先のある病院で気がついたことがあります。「3階まで診てください。4階と5階は診なくていいです」と言われていました。余裕ができて4階と5階を見たら、すべて点滴がぶら下がっている、まったく垣根のない100床ベッドだったのです。その光景にまず驚いたことがあります。
戦後、高齢者対策として措置制度がありましたが、それは貧困対策でした。一般の要介護高齢者は行く場もなく、病院に背負わせてきた姿だということを、いわば感覚として見たわけです。今は回復期リハビリテーション病棟などと病床が機能分化しているけれども、当時は病院は入院すれば点滴を行うという医療です。
1988年頃、私が病院の外科部長をしている時に、たまたま「先生、もう医療はいらないから、家に帰してほしい」という患者さんがいました。それで、「訪問して看護を行うことに、私自身がその分賃金を払いますから、協力してくれないか」と看護師さんにお願いしました。その患者さんが、私の最初の在宅医療の患者さんなのです。病院は在宅で診ることを理解できないので、自分で払いました。病院に入院すると点滴に1日つながれる結果、最期を迎えることになります。その患者さんは「私はああいう死に方はしたくない」とおっしゃった。偶然その方がすべて医療を拒否したために、点滴もIVHもしなくて、たまたまいい最期を迎えたのです。
いい最期が何か、なぜそうなったかは私には分からない。実は2例目に失敗するのです。がん末期で食べることができなくなっていたためにIVHをつけたまま帰すわけです。我々にはその他の方法がない、在宅酸素療法もない。そうすると、自宅の良さというのはあまり関係ないのかなとか思ったわけです。そして3例目を経験した中で、ふと輸液ではないのかな、と輸液に着目しました。
その時代の外科医療の限界を感じて、地域でそういう人たちを診る医者が誰もいない中で、何とかしたいと思って1990年に開業しました。開業もあくまでも地域の見える範囲で人口10万人以内の町で、と思っていました。
【草場】 その時、周りの反応はどうでしたか。
【新田】 まったく理解がない時代でした。病院から末期がんの人がIVHを入れて1500〜2000mLの輸液で帰ってくるのですね。私が500mL以下に落とそうとすると、患者本人や家族から「先生は殺す気か」と言われる。でもまだ若かったので、本来なら輸液すらいらない、在宅こそはいいと、在宅原理主義者になるわけです(笑)。これこそが必要だという熱意があってですね。
病院医療の問題と並ぶ大きな課題は、「診療所のルネサンス」です。その頃、病院の医療から診療所で家庭医がやる時代が来るなと考えていた時に黒岩卓夫先生を中心に「在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク」が結成されました。あれは最初は診療所のルネサンス運動だったと思うのです。
【草場】 もう一回そこで診療所の力をぐっと上げるということですよね。
【新田】 そして、その中には在宅医療が中心となるという確信がありました。もう1つの課題は、大澤先生が話されるけれども、地域で医療を行うと実際はがん患者より認知症の人が多かったのです。
【大澤】 私は精神科の医者で、精神科の医者から在宅医療なんて今でもたぶん非常に珍しいのではないかと思います。開業する前の2年間はある精神科病院に勤めていました。その病棟は統合失調症の古い患者さんが多く、そこに認知症の人たちが混じっていました。寝たきりになる人たちもいましたが、結構元気な人もいて、特に統合失調症の患者さんは慢性期ですから、非常に落ち着いていました。思ったのは「この人はなぜここにいるのだろう」と。
【草場】 やはりそこなのですね。
【大澤】 それから退院させていったわけです。これは病院側にとっては非常に面白くないですよね。そして、実は病院から往診に行っていたのです。
だんだん病院にいづらくなってきて(笑)、それで開業という道を選んだのだけれども、最初から認知症の人は診たいなと思っていました。
最初から在宅医療というイメージは開業した頃はまったくありませんでした。ただ当時、認知症の人を診たいといっても、それで患者さんが来るという時代ではなかったですね。ですから、内科もしながら両方やっていくわけですが、ポツポツと認知症の人がやって来るけれども、こちらは何も治療手段がないのです。今でいうBPSDに抗精神病薬を使ったり、家族のお話を聞いたり、アドバイスをしたりということはありましたけれども、それ以外の方法というのがまったくない。
ただ、群馬県箕郷町(現・高崎市)に「みさと保養所」という民間のデイサービスがありました。1日2000〜2500円の自費を取って、送迎や食事がついて、ホチキスの針の箱詰めなどの労働や散歩など、色々なことをしていました。当然生活のリズムができるし、日中だけですがご家族のレスパイトにもなるわけです。それを見て、同じような形を展開できたらと考えました。そこで、重度痴呆患者デイケア(当時)を始めたわけです。
【草場】 それは何年ですか。
【大澤】 開業して4年目の1991年ですね。苦労したのは、施設基準で作業療法士(OT)がいなくてはいけないのですが、当時は本当にOTがいないのです。それで群馬大のOT学科の教授とお話をして紹介してもらったのです。それに加えて、精神科病院の経験のある看護師を配置するという条件もありました。当時全国で10番目の重度痴呆患者デイケアでした。それまでは大きい病院で、診療所でやったのは私の所が間違いなく初めてだったと思います。これがまた、それを維持していくのが非常に大変なのです。雇用している2人にどこかに行かれてしまうと困るわけです。
そういう形でみていくと、外来にも来られない、デイケアにも来られないという人たちがやはり出てくるわけです。当然高齢化していきますし、認知症が進んで、その自然な経過の中で歩けなくなって、寝たきりになったという方たち。それから転倒・骨折して、ADLが落ちて来られなくなる方たちが結構出てきたので、私が訪問するようになりました。
その時に、アルツハイマー病が中等度に進んでいて、骨折後に手術したけれども結局寝たきりになった方を在宅で看取りました。7年くらいの経過を診ていて、何かすごい達成感を頂きました。外来から診ていて最期は訪問して看取るという、このプロセスとずっと付き合えるといいなという思いが強くなりました。それが私の在宅医療の原点ですね。
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