様々な著者によってこれまで多くの「診断」がなされてきた。ナタリー・エニック1)によると、最初の出版は、1911年のオランダにおいてであり、ついで1920年、厳密な意味で精神医学的な最初の研究が出されたという。さらに、エニックによると、1920年、1922年、バーンバウムはてんかんとした。ついで有名になっているカール・ヤスパースは「精神分裂症」と診断した。
以後、ほとんど同じような診断がなされてきた。同時に、てんかん説も少なくなく、1926年、ターラーは「てんかんの荒れた形態」であるとしている。当時、精神病の類別議論の影響か、クライストの唱えた「間歇的なもうろう状態」が登場している。1928年、ドワトーとルロアは「てんかん精神病」、1931年、ボルテンは「精神病質」、1931年フッターは「変質性精神病」、1932年バダーは「間歇的なもうろう状態」としている。1935年には、ランゲエイヒバウムは「病的不安」を挙げている。
以上のようにみてくると、ヴィンセントの病態は、てんかんの疾病過程における発作症状とみる立場と間歇的に生じた挿間性精神異常にまとめられる。そして、この挿間的変調以外の通常時においては、ヴィンセントには特筆すべき病態はなく、最高の美を創造した天才であり、狂気などはまったくなかったというふうにまとめられる。
ゴッホの入院したサン・レミの精神病院は、12世紀末に創建された旧修道院に隣接した大きな精神病院である。1889年5月8日、カルテを持参したアルル市立病院長ユルバル医師による病状は次のようであった。
複合妄想を伴う急性の精神錯乱と記されていた。それを受け取ったサン・レミの病院長テオフィル・ペロンは翌日、カルテに、「視覚および聴覚の幻覚を伴う急性の精神錯乱に襲われ、耳を切断する自傷行為に及んだ。本日、外見では正気に戻っているが、本人は自由に暮らしてゆく力と勇気がなく自分から入院許可を求めた。これまでの経過全体として、ヴィンセント・ゴーグ氏は相当長い間隔をおいたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する」。
5月26日、ペロン院長はヴィンセントの悪夢が徐々に治まって安眠できるようになり、食欲も出たし、日中は庭で素描をしていると記している。施設の外での仕事もできるようになった。
9月初め。ペロン医師のテオ宛の書状。……兄さんの発作はすっかり収まり、意識は全く明晰な状態に戻って、絵の仕事を始めています。自殺の想念は消え、つらい悪夢だけ残っていますが、これもひどくきついものは消えてきています。食欲が戻って普通の生活に戻っています。
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