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シーボルト(2)[連載小説「群星光芒」125]

No.4702 (2014年06月07日発行) P.74

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-04-03

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  • 幕吏の間宮林蔵は子どもの頃から数理の才に長け、長い竹竿を使って樹木の高低、川や池の深さなどを測って遊んでいた。たまたま近在の堰工事を指揮していた役人の目にとまり、16歳で江戸へ出て勘定奉行下役の末席に召し出された。

    寛政12(1800)年、26歳のとき、蝦夷地(北海道)御用雇として現地へ渡り、箱館沿岸を実測していた伊能忠敬と知り合った。忠敬から測量術の基本を教えられた林蔵は数年後に東蝦夷地の測量を任されるほど腕を上げた。文化5(1808)年、34歳の林蔵は御小人目付の松田伝十郎とともに樺太探検を命じられた。小兵ながら頑健な林蔵は極寒の地でよく頑張ったが、一行は立ち往生して途中で引き返した。

    翌年、林蔵は単独行を敢行して樺太が離島であることを確かめた。さらに現地の住民に同行してアムール川(黒竜江)下流のデレンまで往き、同地に滞在する清朝の役人らと面談して帰国した。

    「樺太と大陸の間には明白な海峡が横たわるのを見届けました。またロシア国の侵掠は樺太まで及んでおらず、現状ではロシアが我邦へ侵入する恐れなしと確信しました」

    林蔵はそう言って未開の北方沿岸を探した成果を公儀に復命した。このとき差し出した畳1畳分の詳しいカラフト地図は老中たちの間で引っ張りだこになるほど評判を呼んだ。

    「よくぞ公儀のために尽瘁いたした」

    林蔵は閣老から褒め讃えられ、国禁たる清国への不法渡海も不問に付された。

    だが樺太単独行はあまりに過酷だった。手足は凍傷のためすべての指先が欠け落ち、両頰には大きな黒痣がのこった。

    「この体ではとても御役目は務まりません」と辞職を申し出たが、

    「今後は格別の務めに及ばず、ゆるりと静養いたせ」と温情ある沙汰をうけた。

    その後、徐々に健康を回復した林蔵は文政5(1822)年、48歳で勘定奉行配下の普請役(30俵3人扶持)に引き立てられた。

    「一介の百姓がたいした出世を遂げたものだ」。幕吏たちは彼の幸運を皮肉混じりに羨やんだ。だが林蔵が望んだのは平穏無事な閑職ではなく、公儀隠密として国中を探索することだった。「御下命さえあれば、長崎表まで足を延ばして蘭人どもの仮面を剥ぎ取り御白洲の前に突き出してやる」 

    日ごろ赤心にはそう語っていた。

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