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シーボルト(13)[連載小説「群星光芒」136]

No.4716 (2014年09月13日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-24

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  • 二宮敬作は大坂の高良斎と連絡を取り合い、イネを手許に預かることにした。

    長崎から宇和島に来るには、豊後国臼杵まで陸路、そこから四国の八幡浜までは船旅となる。タキは長崎奉行所の許しを得て乙名(町役人)からイネの旅切手をもらいうけた。敬作も鳴滝塾以来の手づるで身元のたしかな長崎商人に頼み、イネの道中に付き添うようはかった。

    天保11(1840)年3月下旬、イネは無事に八幡浜へ着いた。「よくぞ、美しく立派に育ちなされた…」。迎えに出た敬作は、従者に付添われた大柄なイネを見上げて何度も声を詰まらせた。見知らぬ土地へきて碧い目に不安気な表情を浮かべるイネだったが、敬作一家の温かいもてなしと飾り瓦に梲の並ぶ風情ある町並みに次第に気持ちをなごませた。敬作は母屋の離れにイネを住まわせ折を見て医術の手ほどきをした。

    間宮林蔵が幕府の探索方(密偵)を拝命したのはシーボルト事件の判決が下りた天保元年だった。公儀は役料として俸禄とは別に年10両の手当を与えた。念願の公儀隠密に転身して張り切った林蔵は、薩摩藩の密貿易探索や石見浜田藩の抜け荷(密輸)の摘発に当たった。いずれも単独行動だった。しかもその探索行は上役の監督を受けず、すべて本人の判断に任されていた。家族もなく自由に動き回る林蔵はしばしば無届で転居した。直属の上司は勘定奉行普請役元締の河久保忠八郎だったが、彼とて勘定奉行や勘定吟味役から林蔵の所在を聞かれても判らなかった。林蔵は老中大久保忠真から直に密命を受けていたのだ。

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