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シーボルト(14)[連載小説「群星光芒」137]

No.4717 (2014年09月20日発行) P.70

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-23

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  • 高良斎が急逝したとの知らせを受けた二宮敬作は愕然とした。

    「血の気の多い良斎殿のことだ、なんぞ頭に血をのぼらせて斃れたのであろう」と親友の急死を悼んだ。岡山の産科医石井宗謙と彼の許で修業するイネに訃報を伝えた。宗謙の返書には、「良斎殿はいいたいことをいい、やりたいことを思う存分に為して、さっさと人生の幕を引いた。羨ましい限りである」と書かれていた。

    敬作は大坂本町の良斎宅に弔問にでかけた。「鳴滝塾の4年間に高野長英殿をはじめ錚々たる門人に出合いましたが、腹蔵なく語りあえたのは良斎殿だけでした。これからというのに無念でなりません」。遺族にそう述懐して慰霊に手を合わせた。

    蘭語に堪能な宗謙はバイエルンに在住するシーボルトに良斎の逝去を知らせた。

    「大坂の良斎殿は中風(脳卒中)で亡くなりました。48歳の働き盛りだったのに残念なことです。おタキ殿は良き夫と再婚して長崎で達者に暮らしております。おイネ殿は美しく成長してわが医院でひたすら産科医術に励んでおりますのでご安心ください。あなたの忠実な生徒 宗謙より」

    悦んだシーボルトは多数の洋書と洋薬を送ってきた。しかし,忠実な生徒のはずの宗謙は師の娘に対して恥ずべき行為に及んだ。妻も妾もいる熟年者は、25歳のイネの豊満な肉体に理性を失った。深夜、イネの寝所に忍び込み手籠めにしたのだ。産科医イネにも1度は交接なることを知っておこうという気持ちがなかったわけではない。しかし、まさか宗謙との初めての交わりで身籠ろうとは思いもよらなかった。

    イネは石井塾を去り、母タキの再婚先、銅座町の俵屋時次郎の家で女の子を生んだ。嘉永5(1852)年2月26日の早暁だった。「父無しの只の子だ」と思い、タダと名づけたが、のちに宇和島藩主の命でタカに改めた。

    卯之町で開業する敬作はイネが宗謙の子を生んだと知らされて一時は愕然としたが、シーボルト先生に孫ができたのだから慶賀すべきであろうと思い直した。

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