小関三英さん、あなたは2年前の天保10年5月17日(新暦1839年6月27日)の明け方、赤坂溜池の岸和田藩邸でランセッタ(外科用の尖刃刀)を摑んで頸動脈を切り裂き、自決なさいました。
絵師のわたしは八王子方面に写生に出かけていて何も知りませんでしたが、翌月になっていつものように御宅を訪れたとき、奥様からあなたが20日ほど前に自決なさったと聞かされて腸がでんぐり返るほど驚きました。体の芯まで震えがきて、しばらく口がきけませんでした。
さすがに武士の奥方だけあって奥様は涙もみせず、最期のありさまを気丈にお話くださいました。
三英殿は乱心にて自決せり、と岸和田藩に届け出て受理されたこと、葬儀も簡略に済ませたことなどを静かに語りました。
わたしはひたすら仏壇に手を合わせてお葬式にも出なかった無礼をお詫び申しあげ、ご冥福をお祈りいたしました。
そのあと奥様に、なにか言い残されたことはありませんか、とお訊ねしますと、
「いいえ、遺言も辞世の句もありませんでした」と俯かれ、しばらくして面をあげると真剣な目つきでこう申されました。
「登与助さん、お願いですから三英殿に捧げる追悼文を書いてくださいませんか。殿のご霊前に供えてお慰めしたいのです」
思いがけないご依頼に返事をしかね、
「すでにどなたか弔文をお書きになったのでは……」
と話のむきをそらしました。
「はい、知人の方々に丁寧な弔文を沢山お寄せいただきました」
でも、と奥様はふたたび目を伏せられ、
「こんなことを申しては罰が当たりましょうが、いずれも当り障りのない弔文ばかりでしたので……」
と口を濁され、目頭を抑えながら仰いました。
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