以前にこの連載の中で「傾聴」(No.5098)を取り上げたことがある。
その中で僕は、
傾聴はあくまでも「患者自身が自ら、自分の意志に沿って自由に話せるように言葉の環境を設定すること」であり、医療者が患者から話を聞きだそうとするものではない。
と書いた。今回はその話に、「傾聴とは、目の前の人を信じること」であるという話をつけ加えたいと思う。
僕がまだ医学生だった頃、見学に行ったある病院で外来に陪席させてもらったことがある。そのとき、僕がついた指導医Aは50歳前後の部長だったのだが、自分の外来をこなしながら、隣で外来を行っている若手医師Bの指導も一緒に行っていた。器用なことができるものだな、と思ったが、A医師が「B先生と患者さんのやり取りも気にかけてごらん」と言うので、僕も何となく隣での会話に耳を傾けていた。
するとA医師が僕に「どうだい?」と聞いてきたのだ。僕は何を聞かれたかわからずに戸惑っていたが、A医師は微笑んで「B先生の話す量と、患者さんが話す量、どちらが多かった? あれでも、B先生の話す量はだいぶ減ったんだよ」と言った。そしてA医師は「患者さんの話を聴くこと自体が治療になるんだよ。こういった小さな病院に来るような患者さんは特にね……。患者さんの話を聴けないのは、患者さんを信頼していないからさ。患者さんが自ら良くなろうとしている力を信用できていない……」と教えてくれた。
僕らは本当に「傾聴」ができているだろうか? 患者さんが話し終わらないうちに、自分が話しはじめていないだろうか。患者さんよりもたくさんしゃべろうとしていないだろうか。僕らは患者さんのためを思って色々とアドバイスしようとするけれど、それは患者さんが自ら良くなろうとする力があるのを信じきれていないということではないだろうか。
医学的には間違った考え方、誤った解釈、診察の場にはそぐわない話題……。そういうことがあったとしても、その言葉の先に患者さんそれぞれの自律がある。この場でその言葉を出そうとした「心の動き」がある。だから、医者という権力を持ってして、いきなりその芽をつぶしてしまってはならない。医学的な間違いは「指摘」はすべきだが、その考え方そのものを「遮断」すべきではない。
患者さんの言葉の先に、本人が自ら生きる力の涵養がある。それを僕たちが信じられるからこその「傾聴」なのだと思う。
監修:福島沙紀(臨床心理士・公認心理師)
西 智弘(川崎市立井田病院腫瘍内科/緩和ケア内科)[患者の自律]