いよいよ10月に厚生労働省においてかかりつけ医機能報告制度に関する検討会が発足し、かかりつけ医機能としてどのような項目を報告するべきか、また、報告された情報をどのようにして国民にわかりやすく伝えるべきかという重要なテーマの議論が始まる。医療法ではその大枠のみを規定しており、この制度が真に国民に資するものになるかはその細部にこそかかっている。
まさに日本のプライマリ・ケアの将来に影響する制度が動きはじめようとする今、これまでのプライマリ・ケアの歴史に思いを巡らせてしまう。日本におけるプライマリ・ケアの原点といえる実地医家のための会が1963年に設立された際、その趣旨に当時の日本医師会長武見太郎も賛同したと伝わっている。確かに、76年に晩年の武見が記した『医心伝真』において、彼は「昔の家庭医は、個々の家庭の生活水準やその地域の特殊性、生活条件の特殊性を熟知していた。……一人の医師と一人の患者、あるいはその家庭との人間関係は、きわめて緊密であった。……いまや、……一つの疾病が地域性や家庭の事情によっていろいろな影響を受けるものだという重大な事実について、医師にも患者にも十分に理解できない……」と伝統的なプライマリ・ケアが失われつつあることへの懸念を示し、〈二十一世紀の医療をめざして〉と題する項では「第一次医療、これはおなかが痛い、熱が出たというときには家庭医制度をつくっておくことがいちばん大事であり、これは第一次医療の非常に重要な部分である」とシステムとしてのプライマリ・ケアの重要性を明記している。
こうした記述のみならず、本書全般に散見される武見のプライマリ・ケアへの憧憬は現在でも共感できるものばかりであり、彼と今対話できたら共感し合えた気がする。その後、国も家庭医制度に関する関心と期待を高め、武見会長の了解も得た上で80年からは厚生省臨床指導医留学制度のもとで米国の家庭医療専門研修プログラムに若手医師が派遣され、将来の家庭医教育を担うよう嘱望された。彼らは帰国すると、プライマリ・ケア普及のための講演会を担うなど先駆者の役割を果たすこととなる。歴史を振り返ると、このタイミングがプライマリ・ケア制度を日本で確立する最初のチャンスであった。
その後、国は家庭医に関する懇談会を85年に設置し、日本の医療に家庭医制度を導入するための議論を開始したが、83年の武見医師会長の死去により家庭医制度否定の立場に変化した日本医師会の強い反対もあり、87年に10項目の家庭医の果たすべき機能を列挙するにとどまった。つまり、医療制度として発展していく歩みは一旦止まらざるを得なくなったわけである。彼がもう少し長生きしてくれていたらという気もするが、歴史とはそういう偶然の積み重ねであろう。
ただ、歴史のいたずらか、あるいは運命か、この9月に武見太郎の息子の武見敬三氏が厚生労働大臣に就任した。武見太郎氏没後四十年のこのタイミングで、ぜひ、日本の医療の基盤としてプライマリ・ケアを強力に推進し確立していく役割を継承して頂きたいと切に望んでいる。
草場鉄周(日本プライマリ・ケア連合学会理事長、医療法人北海道家庭医療学センター理事長)[総合診療/家庭医療]