昨年の8月上旬に訪問する機会を持ったキューバはとても暑い国であった。ハバナの街は社会主義国とは思えない陽気で、何処にいてもサルサの音楽が聞こえてきた。1950年代のアメリカ車からもたらされる排気ガスの匂いも強烈であった。ヘミングウェイが暮らした家、『老人と海』を描いた海岸、いつも利用したレストランは今も同じ姿をしていた。ゲバラが何処へ行っても国民の心の中にいた。エルネスト・フレディ・マエムラの名前も知った。日系2世の医学生である。
ボリビアのトリニダ市で洋服生地店を営む日本人の父と妻ローサの次男として生まれ外科医をめざしていた彼は、1962年にキューバのハバナ大学医学部で学ぶことになる。その後理由はわからないがゲリラ隊員を志望し、1966年11月、チェ・ゲバラの元でボリビアに戻ることになる。1967年8月31日、ボリビア政府軍と銃撃戦後、逮捕され銃殺される。ゲバラが亡くなる38日前のことであった。カストロ革命政権ができる前の、親米バティスタ政権とマフィアの世界が革命政権に移るが、60年間そのまま残っていた。
米国の近くに居ながら、資本主義の影響を受けることなく、と言うよりは、革命政権の粛清、資本主義経済の放棄をし、さらに、ソ連崩壊後ロシアの影響は制限され、中南米の世界がそこにあった。初めて中南米の価値観にも触れた。如何に私たちの価値観が欧米のそれに準じているか改めて思い知らされた。
モヒートを昼も夜も飲んでいた記憶がある。昼から飲む酒が当たり前にある暑い世界でもあった。年間収入も聞いたが貧困社会であることは間違いないが、幸福度が高いと感じるのは何が原因であろうか。
ベネズエラのチャベスはキューバでは英雄であり、米国資本が如何に悪であるかを見てきた世界は、今年60周年の革命記念日を迎える。60年前の制度が残り、家庭医制度が確立されていた。家庭医協会の会長夫婦と夕食を一緒にする機会を得た。レストランまで手を組みながら道を歩く仲の良い夫婦である。食事中に2人の意見が違った。ご主人はIC関連の仕事をしている。キューバの家庭医制度は間違っていると、ご主人は力説されていた。
家庭医協会の会長は困って私に話を向けた。キューバに来て私が家庭医制度の良さを説明する話になった。ご主人の話は、お母さんが突然の胸痛を引き起こしたとき、家庭医に行くよりは病院に行けば命を助けられたことの思いから、先ほどの意見になったようである。それでも家庭医制度を守る必要があることを私がすることになり、夫婦を仲直りさせることができた。
日本は今回、12億円に近い医療補助をするようである。がん対策と聞いたが、現状のキューバは医療機器が1980〜90年代の器械であり、X線写真の現像は手製の世界であった。今、キューバが求める世界は地域医療の充実であり、MRI、CTの導入でないことは明らかである。がん対策は国民の誰にも受ける権利があり、わずかな医療機器の導入は格差社会をつくるのではないかと感じた。配給制度が残り、月の10日ぐらいしかそれも持たない。貧困社会での高度先端機器は誰が維持し、管理していくのか。キューバは改めて何処をめざしているのかを考えさせられた。