私が好んで観る数少ないテレビ番組にNHK・BS『英雄たちの選択』がある。惹句に「歴史のターニングポイントでの英雄たちの選択」とあるように、歴史に名を刻んだ人物たちが己の切所で何を選択したかを、様々な立場から論ずる番組である。歴史にifはないとされ、結果が出ている彼らの行動の是非を問うのは無意味との意見もあるだろう。しかし、選択を迫られたときに露わになる煩悶や人間臭さが、英雄たちを身近な存在にしてくれる。決断に至るまでの過程や人間模様などは、事の大小こそあれ、私たち庶民とさほど変わりがないとさえ思わせてくれる。
私も昨年10月をもって30年間続いた開業医の生活にピリオドを打った。ささやかな「私の決断」である。70歳にしてようやく、ほとんどがリタイア生活を送る仲間たちと同じ地平に立ったことになる。生涯現役として身も心も疲れて朽ち果てるよりも、余熱を抱えたままスタートを切ることで、新たな好日を楽しめると考えたからである。
私のいわゆるアディショナル・タイムには、これまでよりは自由が満ちているのは間違いない。患者からの自由、世評からの自由もあれば、他人の目からの自由もある。これまでの人生がレディ・メイドのものであれば、第二の人生こそ、すべてから解き放たれた真の自家製となる。自らの内なるものによってのみ燃え、内なるものによってのみ自らを律していけば、見たことのない世界が広がり、新たな創造が生まれるだろう。
ある日の『英雄たちの選択』では、正岡子規が取り上げられていた。サブタイトルは「生きた証しか、見はてぬ夢か」である。俳句振興の功労者として名を残すか、日本語文の革新という大望か、という選択に迫られる子規の姿を論じ合うものであった。後者を選んだ子規に擬えるほどでないにしても、私にもまだ見はてぬ夢がある。それを叶えられる時間くらいはまだ残されていると信じたい。