昨年の炉辺閑話で披露した、父方の祖父の軍歴は以下の通りであった。「昭和十九年六月一日教育召集ノタメ重砲兵第五聯隊第一中隊ニ應召 八月二十八日召集解除」。今回は、召集によって残された家族の有様、すなわち、銃後を取り上げる。銃後とは広辞苑では「戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民」とあり「銃後の守り」という用例がある。
昨夏、いみじくも80代半ばの父方の伯母から自分史の原稿を頂戴した。戦後70年以上経過し、何かを残そうという気持ちが湧いたのか? 応召に関する部分を許可を得て引用する。
「召集令状」年齢的に、もうこのようなことはないであろうと思っていた矢先に赤紙が来た。ご時世とは云え、家族は吃驚の底に落ちた。名目は三ヶ月教育召集ということであったが、国防色の軍服に身を包み、年寄二人と子供四人(註:この時点での末子が小生の父親)、母を残して入隊する(中略)軍歌と共に村人が日の丸で送ってくれました。私達は不安で泣きました。体調を崩しているという知らせあり、その後間もなく骸骨のようになって帰ってきた(中略)夏のことで朝起きれば父が蚊帳の中で寝ていた。子供心に余りの変わり方に吃驚した(中略)男子は次々と召集され、女性は夫の帰りを待ち乍ら子供を育て、銃後の守りをする時世であった(中略)元気で若い人達は殆ど兵隊さんに召集されて戦地に赴き、年寄と母親と子供が残された(中略)八月十五日玉音放送で敗戦が知らされ、戦いは大きな傷跡を残して終わった。国民はいたたまらない気持ちでそれぞれの涙を流した。父の言葉「とうとう負けたなあ」と八人の家族に伝えた。以上。
戦後、祖父は大変な苦労をし、ずっと胃腸の調子は悪かったそうだが、戦後15年、遂に胃癌の診断が下り、手術を施行された。病理診断を学んだことのある者として、是非祖父の胃癌を分析してみたいと思っていた。幸いいろいろと判明したことがあるので、続きは来年、再来年と述べていくこととする。