もはや地位・名誉は望まなくともよいではないか。若干の金と生活のスペースで質素な生き方をすれば、もはやそれ以上のことは望むまい。
世界は荒れて人々の心はすさんでいる。意味もなく刺し、切り刻んで山に遺棄する。さしたる根拠もないのに、どうしてそんなに短絡的な行動ができるのか。生い立ちのプロセスで親や祖父母にどう接触し、どんな教育があったのか悔やまれる。人が癒され、安心の生活が保障されるはずの宗教が然るべき「人の生き方」を保証することは当然のことではあるものの、今や宗教の本来の位置づけから脱して、人々の不安を解消するどころか人の集団の争いを助長し、あちこちに殺戮を生み出していないか。
おしなべて地球上で生活する人々の格差が広がり、更なる貧困をもたらしている。これらの事態を救うべく、国際的(国連など)に様々な方策がなされている。しかし、利害・利権が様々に絡み合い、事態の改善はなかなか実現しがたい。何の罪もない住民や女子どもたちが、無慈悲に犠牲になったりする。遠くの地域、国で起きたことと可視できまい。生きとし生けるものの助け合いの絆で、どんなに小さくとも慈しみの連携で生きていかなければなるまい。
誰しも一人ひとりの不安やつらさ、痛み(精神的、肉体的)は程度の差があるはずだ。ひるがえって至近の生活について考えてみる。
向こう三軒両隣の付き合い。隣は何をする人ぞ、と独立の生活もやがて孤立の生活になったりする。少子高齢化、人口減のなせる業か。では、田舎の空き家で人情の濃い人々と生活を始めてみるのはどうか。手づくりのおかずを、おすそ分けしたりする。時には食事会も……。今の生活の満足、不満足を語り合う、共通の「想い」を吐露し合う。気が置けない仲間との交流は、高齢者にとって何とも憩いの、安心の場にちがいない。
ちなみに、ふとしたことで緑の濃い里山が使える出会いとなった。驚いたのは自然の深さや豊かさ、小川のせせらぎ、山鳥のさえずり、真紅の落ち葉を踏み分けて行くと、光り輝く栗の実があちこちに敷きつめられている。割れた大きな栗の実は動物(イノシシ、サルなど)のご馳走の跡だろうか、または、山から下りてきた動物達が親子連れで喜々として食べた跡だろうか。季節はやがて枝垂れ桃花か、近隣の人々が三々五々集まってきて、ひとときの「お茶の時間」を楽しんでいる。
里山の持ち主(診療所長)は診療の疲れから解放され、にこにこと長靴姿で小川の中で、沢ガニをつぶさないようにしている。来季は蛍が乱舞するだろう。ふと見ると隣のホテルの「女将」がきらびやかな和装で、栗のイガもものかはブルドーザーのように走り寄ってくるではないか。
あの診療所を後にした長靴姿の医師と今客を送り出した艶姿の「女将」との出会いは、目線は、ひときわ輝いていたのだった。
飼育した霊鳥ウコッケイの卵、そして蜜蜂の蜜は皆の滋養強壮のかたまり。
モンペ姿の仲間たちが集いはじめ、たどたどしい手つきで蕎麦の種を蒔きはじめた。
「来年の暑気払いは手打ち蕎麦」と夢見ている。菜の花、ニンニク、ニラ、明日葉、タラの芽などはと……。足腰が弱り認知の高齢者、若いのに「うつ」になって仕事に行かず人嫌い。これらの人々を里山に連れて行こう。そこでお茶を飲もう。1泊しよう……寝袋で。薬草を摘み煎じて飲もう。
皆が笑顔で元気になれば、里山の神はにこやかに祝福してくれるに違いない。誰しもに、やがて訪れる人生の終楽章(たびだち)。それを里山で……。それは「神」の御加護のもと成就されるに違いない。
伊豆南・里山の会〔小川、嶋津、稲葉、渡邉(信)、渡邊(秀)、三谷〕