東北大学病院の病院長の任に就いたのは平成24年4月、東日本大震災の翌年のことでした。震災時は副病院長でしたから、3年間の病院長とその後の医学部長を含めて、震災後の6年間の私のミッションの重要な部分には、常に震災被害への対応と震災からの復興があったように思います。地震直後は、全国からの支援物資の確保、後方支援病院として被災地から毎日搬送されてくる患者さんを受け入れるために院内ベッドの確保に奔走しました。震災後1年以上たつと、全国からの医療支援が次第に縮小する中、被災地医療は破綻しそうになっていました。
「地域医療の最後の砦」である大学病院として、被災地の患者さんを守る責任を痛感しました。院内に地域医療復興センターを設置し、診療科の垣根を越えた医師派遣システムをつくるべく、東北メディカル・メガバンク機構の教官ポストにより循環型の医師派遣体制を構築しました。トモフェローと呼ばれる被災地医療の救世主たちは4カ月間被災地で医療支援を行い、8カ月間はメディカル・メガバンク教員として研究や教育を行います。最も多い時は、このラインが10列以上用意され、津波被害が大きかった志津川町の公立南三陸診療所や気仙沼地区の本吉病院などの医療を支えました。この支援は現在も続いており、東北大学病院の内科系、外科系の若い医師を中心に被災地の医療を守り続けています。彼らは地元住民に感謝され親しまれて、自宅に呼ばれて夕食をごちそうになることもあると聞いています。医学部長になってからは、被災地東北の医療復興のシンボルとなる新設医学部の設置と連携整備に関わりました。
津波で壊滅した公立志津川病院は、一昨年12月に南三陸病院•総合ケアセンターに生まれ変わりました。津波で全壊した石巻市立病院も移転新築し、真新しい病院として昨年9月1日に再スタートを切りました。今年11月には新しい気仙沼市立病院が開院します。東北薬科大学は昨年4月1日、医学部を新設し、東北医科薬科大学として一期生を受け入れました。振り返ると、いろいろなドラマがあり、また、思い出が脳裏を巡ります。被災地宮城の医療復興は着実に進んでいるように感じます。