何年か続けてノーベル医学賞の受賞者を当てていたことがある。
そのおかげで、9月に入ると必ず予想の問い合わせが来る時期があった。それが、ある年から途絶えた。きっかけは、カロリンスカの変貌である。
ノーベル賞を決定する委員会は、いくつかのグループに分かれている。
中心的な存在はスウェーデン王立科学アカデミーで、「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」の3部門を担当している。「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーが決めるが、我々医師に最も身近なノーベル医学・生理学賞は、カロリンスカ研究所の管轄である。
21世紀の初頭、カロリンスカは「臨床重視」を前面に出した。
2005年のHelicobacter pylori,2008年のhuman papilloma virus(HPV)およびhuman immunodeficiency virus(HIV)などは、典型的な例となった。日本を訪れた委員と私との会談でも、臨床実践が医学賞の条件であることを豪語していた2)。この時期、現場の臨床医である私にとって、ノーベル医学賞を予測するのは容易であった。
ところが、この、きわめて好感の持てるカロリンスカの決断は、あっさりと撤回されることになる。結局のところ、経済効果を優先する政治に押し切られたのである。どこの世界でも、直接的な利益が優先されるようである。
困ったことは、その後、振り子が正反対に振り切られてしまったことである。
一度基本概念が崩れると、倫理性をも無視して、ノーベル賞の選定における科学界における貢献度さえも無視されるようになってしまった。21世紀初頭にカロリンスカが示した「医学者の良心」は、撲滅前に見せる最後の輝きだったのだろう。
そうなると、もう、誰がノーベル賞をとるのかがまったく判らなくなってしまう。案の定、2010年以降のノーベル賞は、どの賞を取ってみても政治色が強く、怪しい影が拭いきれない。科学的には、いったいどのような基準に従っているのかがまったく判らないのである。ノーベル自身が言い残したと言われているルールからも外れてしまっているように見える。
飽くまでも個人的な意見だが、ノーベル賞は20世紀で終了すべきだったのだろう。人類の足跡で、堕落のない綺麗な世界が綺麗なままに残ってくれることは、それなりに意義があるものだと思うからである。残念ながら、オリンピックもノーベル賞も、創設の意図からは遠くかけ離れたものになってしまった。それはそれで、ある種の価値はあるのだろうが……。
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