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相良知安(3)[連載小説「群星光芒」258]

No.4847 (2017年03月18日発行) P.80

篠田達明

登録日: 2017-03-19

最終更新日: 2017-03-14

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  • 文久2(1862)年、佐賀の実父相良長庵の訃報が届いた。佐賀藩からも帰藩するよう下命があり、知安は2年間学んだ佐倉の順天堂医院を離れることになった。
    佐賀の養家では妻の多美が幼い息子の安道を抱いて嬉しそうに知安を迎えた。
    実家の兄たちとともに父の菩提を弔った知安は当分、家族とともに故郷で過ごそうと考えたのだが、その暇はなかった。ふたたび藩命があり、長崎の『精得館』でオランダ医学を学ぶことになったのだ。
    『精得館』は順天堂時代の同輩岩佐 純が入校してオランダ軍医ポンペと交代したボードインの指導をうけていた。しかし文久3(1863)年に知安が入校したとき、岩佐はすでに福井に帰藩していた。
    ボードインの指導は厳しかった。知安は必死でオランダ語を学び、ボードインの講義を原語で理解できるほどになった。
    「岩佐も俊才だったが、相良の頭脳はずばぬけている」。ボードインは知安の非凡な才を手放しで褒めたたえた。
    順天堂医院の佐藤尚中が話していたように、ボードインから借り受けたオランダ医書はいずれもドイツ医学の蘭語版だった。
    定評ある外科書を著した『ストロマイエル』をはじめ、解剖学のポックやヒルト、生理学のアマーレンチン、病理学のハルトマン、薬剤学のウーステルレルらはすべてドイツ人であり、かれらの著した医学書のほとんどがオランダ語に翻訳されていた。
    ボードインでさえ、「アムステルダムの金持ちが病気になるとベルリンの病院を受診するんだ」と母国よりもドイツの医療が優れていることをかくそうとしなかった。

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