「海洋療法は波撃によって患者の身体を力強く打たせる新しい治療法である。胃腸病、皮膚病、リウマチ、神経痛、食気不振、子宮カタル、貧血病、顔面痛など、その効能は枚挙にいとまがない。海辺の気候と海水を取り入れた養生法は健康改善にも絶大な効果があり、大磯海岸の空気と気候を利用せずに放っておく手はあるまい」
これを聞いた町長は本腰を入れて海水浴場の開設にのりだし、明治18(1885)年夏、わが国最初の海水浴場が大磯に開設された。
折角の海水浴場が宝の持ち腐れになってはいけない。これを広めるには宣伝が大事である。東京の歌舞伎界では毎年正月に恒例の「曽我の対面」が演じられる。これは敵討ちで有名な曽我兄弟が父の仇工藤祐経と初めて顔を合わせる舞台である。このとき兄の曽我十郎と大磯宿の遊女虎御前との色模様がくりひろげられる。虎御前はのちに出家して大磯の延台寺に葬られた伝説の美女である。この舞台を5代目尾上菊五郎、5代目中村歌右衛門、初代市川左團次、13代目市村羽左衛門らの名優が演じて評判をとっていた。
わしは虎御前の評判にあやかろうと菊五郎や歌右衛門らを大磯に招いて海水浴の効用を宣伝してもらった。
おかげで大勢の客が大磯海辺に集まってきた。東海道線に大磯停車場を新設すればさらに客が来るだろうと、こんどは元老の伊藤博文公にはたらきかけた。
公の威力はたいしたもので、たちまち大磯停車場が実現した。すると名士や資産家が競うようにして別荘を建てたから、地価が高騰して地元民の懐を大いに潤した。
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