鹿児島医学校は4年制の本科と2年制の別科をもうけた。高木兼寛も洋方医学院から医学校本科に籍を移した。
医学校校長に就任したウィリスの希望により、鹿児島医学校の附属病院が元豪商の加藤平八宅跡に建てられた。
病院は2階建ての洋館で、ウィリスの出身地を思わせるアイルランド風の四面赤レンガ造りだった。すべての窓が小さく、まるで倉庫のように見えたので、住民たちは赤倉病院と呼んでいた。
ウィリスは午前中に病院で診療を行い、午後は本科の生徒に講義をした。
ゆっくりした英語で解剖学や生理学を教えるウィリスの講義を、兼寛は懸命にノートに書き取った。
ウィリスは英国から持参した骸骨を示しながら人体解剖を教えた。顕微鏡を用いて血液の中身を観察したとき、兼寛は血球や血小板の精妙さに思わず唸ってしまい、周囲の生徒を愕かせた。
外科学はウィリスのもっとも得意とする科目であり、エジンバラ大学のサイム(Syme)教授の外科学書を捲りながら自験例をまじえて講義をした。
内科、産婦人科、耳鼻科、眼科なども英国の医学書をもとに教えた。
午後の臨床実習は赤倉病院で英国式のbedside teachingが行われた。怪我人の縫合などはウィリスの指導のもとに生徒に行わせた。
兼寛は会津戦線へ往く途中、銃弾摘出術に難儀して大村藩の本川自哲軍医長に助けてもらったことを思いだし、メスやハサミの用い方、糸結びの正しい方法、出血部位の結紮法などを、基本に戻ってみっちり修練した。
外来患者の止血や縫合を受け持ったとき、その成果がウィリスの目にとまり、「カネヒロの技はexcellent!」と称賛された。
こうした本格的な医学教育が人気を呼んで、鹿児島医学校に入学を希望する子弟はひきもきらず、全校生徒は本科・別科を合わせて500〜600名に達した。
ウィリスは正課として英語と英会話を教えた。東京の大病院で診療をしている間に会得したのか、かなり達者な日本語を交えながらの授業だった。
そのうちに兼寛もウィリスの通訳ができるほどの英会話に上達して、講義の翻訳を指名されることもあった。
ウィリスは英語の時間に戊辰戦争のエピソードを生徒に語ってきかせた。
「私は日本政府の要請により鳥羽・伏見の戦いのあと京都相国寺の臨時病院で負傷兵を治療した。つづいて柏崎と新潟の臨時軍陣病院を経て、会津若松まで東北の各戦地を巡回した経験がある。その間に私は1000人におよぶ戦傷病者の手当てを行った。あとで数えてみると、23個の弾丸摘出術と200人余の受傷兵の骨片摘出術、そして小指の切断から股関節離断術にいたるまで四肢切断術は38回に及んだ」
謙遜しがちな日本人と異なり己れの業績を堂々と開陳するあたり、いかにも西洋人であると兼寛は感じた。
次にウィリスは頰をひきつらせるようにして話した。
「越後高田では、味方のはずの長州藩兵が斬首刑に処せられるのを目撃してびっくりしたことがある」
「どうしてそんなことに?」
兼寛もおどろいて質問した。
「地元の役人によると、その長州藩兵は町民を脅して金品を巻き上げようとしたそうだ。斬首された兵士の生首が長州藩兵の宿泊する寺の近くに曝されているのを見て、私は思わずぎくりとした」
また、ウィリスは医師としての在り方を生徒に説いた。
「日本へ来る前、doctorは診療に際してpatientの身分を問わず平等に接するのは当たり前だと思っていた。しかし各地を巡回するたびに、それは日本人doctorにとって思いがけないことだと判った。各地のdoctorは貴人にはこの上なく丁寧に接するが、下層民には犬猫にもひとしい扱いをするのが当然と考えていたからだ。君たちにはpatientを身分によって分け隔てをするのはやめてほしいと私は切に願う」
ウィリスがそこまで話したとき、兼寛は隣席の生徒にささやいた。
「ウィリス先生は実に日本語がうまい。自分たちも英語があのようにすべらかに話せるようになりたいものだ」
それを小耳にはさんだウィリスが兼寛の席の前で身をかがめて質問した。
「youは医療人として戦争の最前線でなにが必須であるか判るかね?」
兼寛は立ち上がって英語で答えた。
「前線の戦闘では負傷者の搬送と医療体制、とりわけ野戦軍陣病院の整備が不可欠だと思います」
「おお、that’s right!」
とウィリスはにっこりした。
兼寛の才能と語学力が抜きん出ていることを認めたようだった。
後日の講義の際、兼寛はウィリスに、「先生はどうして遠い極東の日本に来る決心をなされたのですか?」と訊ねたことがある。
生徒の質問には気軽に答えるウィリスなのだが、この件に関してはなぜか話をそらして語ろうとしなかった。
太政官は明治5(1872)年に兵部省を陸軍省と海軍省に分けた。鹿児島医学校で教員をしていた兼寛の師匠石神良策は新たに創立された海軍省の医務行政責任者として出仕を命ぜられ、上京することになった。その頃兼寛は鹿児島医学校の助教に抜擢されていたのだが、石神の推挙によって海軍省に入省することが決まった。
明治5年4月、兼寛はウィリスと鹿児島医学校の教師や職員、そして生徒たちに見送られて出立した。
東京に着くと既に着任していた石神に伴われて東京築地の海軍省庁舎に往き、行政官から辞令を受けた。身分は一等軍医副(中尉相当官)だった。
しかし勤務先の「海軍病院学舎」はまだ開設されておらず、東京芝高輪の海軍病院内に仮住いすることになった。