株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

高木兼寛(12)[連載小説「群星光芒」314]

No.4904 (2018年04月21日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2018-04-21

最終更新日: 2018-04-16

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

陸軍の土岐頼徳軍医は美濃国(岐阜県)出身で、維新前は幕府の医学所で西洋医学をおさめた。明治5(1872)年に医学知識に乏しい婦女子のために人体の解剖生理をもとに健康保持を説く『啓蒙養生訓』全五巻を出版した。高木兼寛もこれを書店から取り寄せて読んでみた。

その巻之一「骨骸の部」を開くと、
「骨ハ使ヘバ成長して強硬になり使ハねバ軟弱なる事」

「児童の骨ハ柔軟なるゆへ大人の様なる劇き労動には堪へかねる事」

「学校の椅子ハ児童の足掌の宛床面に付貼様に製すべき事」

「坐立とも正直の躰容を習慣とすべき事」などとあり、このあと「筋肉の部」、「歯牙の部」、「消食器の部」、「血液循行器の部」、「水脈の部」(尿・リンパ)、「分泌器の部」、「呼吸器の部」、「皮膚の部」、「神経系の部」、「五官の部」(目・耳・鼻・舌・触覚)とつづき、まことに丁寧で判りやすい啓蒙書であると兼寛は感心した。

その後、陸軍軍医部に入った土岐は大阪鎮台の堀内利国が兵士に麦飯を与えて脚気の予防に卓効があった話を耳にした。

土岐はさっそく陸軍軍医本部に「地方聯隊の兵食を麦飯給与に変更して頂きたい」と建議をした。

しかし、軍医本部次長の石黒忠悳が顔をゆがめて撥ねつけた。

「脚気予防に米麦混食を支給するのは一、二の偏信者のすることである。学問上麦飯に予防効果があるとは解明されておらず、ましてや陸軍の兵食に麦飯を採用するなどもってのほかだ」

この話を兼寛が部下の青木忠橘軍医に伝えると、青木は「手前には石黒さんの心底が透けて見えるようです」と、浅黒い顔をしかめ、「もし陸軍軍医部が公けに脚気白米原因説を認めれば、海軍の脚気麦飯予防説に敗れたと新聞は書き立てるでしょう。陸軍軍医部の権威保持を第一とする石黒さんにとって、そんな屈辱は耐えられないのですよ」と苦笑いした。

そのころ石黒忠悳にとってまたとない援軍が現れた。

陸軍軍医本部で台頭してきた若手の1等軍医森 林太郎である。

森は天稟の英才といわれ、明治14(1881)年、医科大学を卒業すると翌年19歳で陸軍軍医本部入りした。

その3年後、陸軍兵食の学問的研究をするようドイツ留学を命じられる。5年間の留学中、当時世界的に有名だったフォイト博士から栄養学を、ぺッテンコーファー教授から衛生学を学んだ。

その間、森は「日本兵士食物論」と「日本のコレラ及び脚気」をドイツ語で著した。

それらの論文の中で、「わが陸軍兵士20万人に肉食を給すれば国内の肉すべてを軍隊で消費することになり、兵食の洋食化は困難である」と述べ、陸軍の米飯兵食を支持した。

ドイツ留学から帰国すると、陸軍軍医学校長に就任した石黒忠悳に、陸軍兵士の兵食調査実験をするよう命じられた。

大井玄洞1等薬剤官と飯島信吉3等薬剤官が助手となり、内科医の谷口 謙陸軍軍医が兵士の排泄物検査をして、森の仕事を手伝うことになった。

兵食実験は明治21(1888)年9月より陸軍軍医学校の軍陣衛生学教室にて開始された。

森は6人の兵士に米食・麦食・洋食をそれぞれ8日間ずつ摂食させたのち、医学校の庭に据えたペッテンコーファー式ガス代謝試験装置を用いて各食の消化状況、熱量、窒素の出納などを慎重に検査した。

それらの検査成績を谷口軍医の排泄物検査結果と照合したうえで米・麦・洋の3食の利害得失を比較検討して、詳細な兵食分析表を作成した。

実験を開始して10カ月後、森は石黒校長に「兵食調査実験」の結果を報告した。

冒頭、森は分析表を示しながら、「実験の結果、米食が最も勝り、麦食、洋食の順と判明いたしました」と声をはずませた。

つづいて、「本官は海軍医務局のごとく食物の単なる成分分析検査による化学的論議よりさらに進歩した栄養摂取の衛生学的結論を得ました」と申告した。

「この成績は海軍医務局におけるイギリス流食物論の引き写しとちがい、わが陸軍兵食の実際を学問的に実験調査した結論であります。したがって、陸軍兵食を洋食にする必要は毫も無く、従来の日本食にてなんら差支えなきことを実証いたしました。これをもって陸軍兵食の根本原則を確立したといってもよろしいかと存じます」

よくやった、といわんばかりに石黒は満面に笑みをたたえ、「これぞ陸軍の軍陣衛生上貢献するところ大である」と森をねぎらった。

後日、石黒校長は森が実施した「兵食調査実験」の報告書を『陸軍軍医学校報』に登載した。

そこに石黒校長は、「森 林太郎1等軍医ガ行ヒタル調査実験ニ由リテ、幾千年来ノ慣習タル日本食ニ些ノ動揺モ興ヘズ、特ニ兵食トシテ幾回ノ戦闘ニモ実績ヲ発揚シ、永遠ノ基礎ヲ固ムルニ到レリ」
と、研究成果を絶賛して陸軍伝統の白米兵食を称揚した。

一方で、石黒校長は海軍が実施する兵食改革をしきりに批判した。ことに兼寛が推奨するパンと肉食による洋食改革には口をきわめて反対した。

そればかりか大阪師団(前・大阪鎮台)の堀内利国軍医が兵舎内に築造したパンの焼竈を強制的に取り毀させた。

これに反発した緒方惟準軍医は大阪に緒方病院を開設して陸軍から身を引いた。

森は兵食調査実験を終えた2カ月後に大日本私立衛生会にて「非日本食論ハ将ニソノ根拠ヲ失ハントス」と題する講演を行い、衛生学の立場から海軍の麦飯採用を強く批判した。

「麦飯支持論者は麦飯が脚気病といかに関係するのか、なぜ麦飯が脚気に奏功するのか、学問的な根拠すら提示できていないではないか」

関連記事・論文

もっと見る

関連書籍

関連求人情報

もっと見る

関連物件情報

もっと見る

page top