元部下の青木忠橘軍医は話しつづけた。
「しかし陸軍ではあいかわらず海軍の麦飯兵食を《漢方もどき》と揶揄しているそうです。森 林太郎部長などは兼寛さんのことを確たる科学的根拠もなしに見境なく麦飯兵食に突っ走る似非学者と愚弄したらしいです」
「ま、すべては伝聞だから気にすることはあるまい」
そうは言ったものの、まだそんな噂が流れるほど陸軍は白米兵食にとらわれているのか、と残念に思った。
「どうして兵食問題で陸軍と海軍の軍医はいつまでも対立し続けなければならんのですか」
と青木は口を尖らした。
「双方とも同じ脚気病撲滅を目標としているからには道筋さえつけば話し合う余地は十分にあるのだが」
兼寛がそう言うと、
「海軍首脳の山本権兵衛閣下が陸軍の大御所たる山縣有朋卿に陸軍の白米兵食をやめるよう申し入れさえすればよいのです。それが叶えられれば、ずいぶん多くの陸軍兵士が助かります」と、青木は言う。
「そうなればありがたいが、今のところ夢のような話だな」と、兼寛は苦笑した。
青木も深いため息をついて、「強大な長州閥に弱体化した薩摩閥が兵食改良を提案したとて一蹴されるのがおちです」
と遣り切れない顔つきをした。
「しかし青木よ」と兼寛は真顔になった。
「わしはあきらめない。海軍兵士だけでなく、陸軍兵士の脚気多発をなんとしても根絶するのが夢だ。これからも機会さえあれば、陸軍医務局に粘り強く兵食改革をはたらきかけるつもりだ。とりわけ森軍医部長には直に会って説得したい」
森 林太郎は明治23(1890)年に小説『舞姫』を著し、また自ら創刊した文芸雑誌「しがらみ草紙」にアンデルセンの『即興詩人』を翻訳して評判を呼んでいた。
陸軍内部には「帝国軍人が軟弱な物書きにふけるとは」と顔をしかめるむきもいたが頓着しなかった。
英国海軍の自由な雰囲気を味わった兼寛にとっても森の優れた小説が好ましかった。作家森 鷗外は傑出した文学者であり、文筆に命をかければ世界的な文豪になろう、しかし軍医森 林太郎を科学者あるいは研究者と呼ぶのはふさわしくないと思っていた。
その森 林太郎が陸軍軍医の最高位である陸軍軍医総監に昇進して陸軍医務局長に就任したのは明治40(1907)年11月13日だった。以来、森医務局長には陸軍軍医の間でさまざまな風評が流れていた。
――森局長は自負と気概と負けん気、そしてドイツ語を自在に操る能力と鋭い論調で相手を丸めこむ技に長けている。
――何事も即断即決、目と手が同時に働き、山なす決裁文書をまたたく間に片づける。
――部下が作成した書類は直ちに手に取り、部下が説明する間に朱の細筆を持ってスラスラと加筆する。原文は半分以下に削られ、すこぶる簡潔となり、しかも意味がよく通るものになる。
――局長は書類の文字をいちいち読んでいては暇つぶしだと言う。速読の秘訣は文献を読むのと同様、段落の塊で目を通すことだ。コツさえ摑めば1頁位の文字は一度に目に映る。そこで異様な感じのする所に朱点をつける。あとから朱点の部分を見ると屹度違っているからこれを直せばよい。
――ただし、局長に提出した書類が気に入らないと放り投げられるので、部下はいつも戦々恐々としている。
そして明治41(1908)年の正月、兼寛の私邸に年始に集まった海軍軍医が最近の陸軍医務局の動向を伝えた。
「このほど森局長は陸軍医務局を中心に『臨時脚気病調査会』なる新しい会を立ち上げました」
「ほう、どんな会だね」
好物の鯣を噛みつつ兼寛は訊いた。
「脚気病の原因究明と治療法確立を目的とする国家的な調査会です。海軍からも岩崎周次郎軍医と矢部辰三郎軍医が調査委員として参加することになりました」
岩崎と矢部は兼寛の部下だったからよく知っている。
岩崎周次郎は海軍軍医学校を卒業して明治34(1901)年から2年間アメリカに留学、帰国後は海軍軍医少監に就任した。
矢部辰三郎は岡山医学校を卒業してフランスとドイツで研鑽を積んだのち海軍軍医学校の教官を務めていた。
「森さんも医務局長に就任したからには脚気対策に乗り出さずにはいられなかったのだな」と兼寛は濃い眉をあげて軍医たちに言った。
「それにしても陸軍が単独で国家的な脚気病の調査会を設立するとは、よくぞ役所の縄張り争いにならなかったものだ」
いいえ、と別の軍医が頭をふった。
「衛生問題所管の内務省と学術研究の文部省から横槍が入りました。現在、寺内正毅陸軍大臣が、兵士の脚気病は国家の運命をゆるがす大問題であると、強引に押し通そうとしています」
軍医たちは交々脚気病調査会の設立にいたるまでのいきさつを話した。
森 林太郎が医務局長に就任したとき、長らく陸軍第5師団の軍医長を務めた大西亀次郎が医務局の衛生課長に昇進した。就任早々、大西は森局長に意見具申をした。
「陸軍兵士に脚気が大量発生するのは出征前に常食していた麦飯が入隊した途端白米食に代わるからではないですか。いっそ兵食規定を麦飯に改めては如何でしょう」
森はあざ嗤った。
「君もあの牛込の漢方医遠田澄庵のバカバカしい家伝薬と麦飯療法の信者なのかい?」いきなりそう言われて大西は面食らった。森はつづけた。
「私が医務局長に任じられたとき、帝大の青山胤道医科大学校長から、まさか森さんも脚気予防に麦飯が必要などという俗論に化かせられはしまいね、と釘を刺されたよ」