さて、いよいよ本題の脚気予防法について話し合おう、と高木兼寛が身をのりだしたとき、応接所の扉が開いて事務員が現れた。
「局長、閑院宮様がお越しに……」
事務員は身を屈めて森 林太郎に耳打ちした。
「おぅ、そうか」
とうなずいた森は目を細めて、
「近々本校の衛生材料倉庫を改築して臨時脚気病調査会の附属病室を開設することになりましてな」 早口でそう言ったかと思うと「では失礼」と立ち上がり、そそくさと部屋を出て行った。
――とても肚を割って話す相手ではない……。兼寛はそう呟きつつ陸軍軍医学校をあとにした。
数日後に脚気委員の岩崎周次郎軍医と矢部辰三郎軍医が兼寛の私邸を訪れた。
兼寛は森会長と会った顚末を話してから、「陸軍軍医学校に脚気病院を造る計画でもあるのかね」と訊いた。
「はい」と海軍軍医学校の教官を務める矢部が肯き、「閑院宮様の後押しで国から1万2000円の予算が付きました」
「なるほど、それで森局長は気忙しそうだったのか」
それから矢部はつけくわえた。
「もうひとつ、森会長の提案により陸軍軍医の都築甚之助委員と伝染病研究所の柴山五郎作委員ほか1名をオランダの植民地バタヴィア(現・インドネシアの首都ジャカルタ)へ派遣することが決まりました。3名とも感染症の専門家です」
彼らの話から、なんとしても脚気感染説を証明しようとする森局長のあくなき執念と強固な意志が伝わってきた。
明治41(1908)年9月2日、都築甚之助と柴山五郎作はバタヴィアへと旅立った。
バタヴィアの病理学研究所を見学した都築は、オランダの細菌学者エイクマンが1896年に動物の脚気病について研究報告を行っていたことを知った。ニワトリに白米を投与するとヒトの脚気によく似た症状をおこし、糠を混ぜた米を与えると回復するという実験結果である。
その翌年エイクマンは米糠中に白米に含まれない未知の必須栄養素があると発表したが、日本では殆ど知られていなかった。
陸軍医務局が重視する脚気感染説よりもエイクマンの栄養障害説に傾いた都築は、帰国すると明治42(1909)年5月から陸軍軍医学校でニワトリによる白米と糠の飼育実験をはじめた。
独自の研究をつづけて米糠の有効性をたしかめた都築は、エイクマンと同じように脚気の原因は未知の栄養素の欠乏によるものである、と学会報告を行った。
これとは別に調査委員の志賀 潔も伝染病研究所で白米病の動物実験を開始していた。国内の新聞は志賀の研究報告などから「脚気ははたして伝染病か?」、「麦飯と米糠は脚気の特効薬?」といった記事を載せるようになった。
脚気栄養障害説が次第に高まると陸軍とつながりの深い米問屋は「これからは白米よりも玄米か」と戸惑い、「麦をもっと多く仕入れねばならん」と右往左往していた。
しかし森局長の臨時脚気病調査会では依然として感染説と中毒説が主流であり、未知の栄養欠乏説を唱える都築は調査会に居辛くなり明治43(1910)年に委員を辞任した。
その翌年、都築は米糠の有効成分を抽出して「アンチベリン」と名づけ、その粉末を治療薬として売り出した。
同じ頃、農芸科学者の鈴木梅太郎も白米で飼育した動物の脚気症状が米糠によって回復することを見出し、糠の有効成分を「オリザニン」の名で製品化して販売した。
両薬はともに脚気病の新薬と評判を呼んで多くの人に愛用された。
兼寛は長いあいだ東京京橋区西紺屋町(現・中央区銀座3丁目)に居住していた。
同居する兼寛の長男喜寛夫婦の間に秀寛と名づける男の子が生まれた。
5歳の誕生日には子ども用の海軍帽子と軍服を着て、「ぼくもお爺ちゃんのように海軍に入るんだ」と敬礼する可愛い孫に育った。
次男の兼二は近衛聯隊を除隊してから共立東京病院の内科医として忙しい毎日を送っていた。3男の舜三は念願のペンシルバニア大学に留学してアメリカ生活を満喫していると便りがあった。
夏になると兼寛は妻の富子、それに書生や女中たちを連れて大磯に設けた別荘へ避暑にでかけた。ときには長男や次男の家族もやってきて賑やかだった。しかし普段は共立東京病院と慈恵医院の運営で忙しく明治44(1911)年の晩秋に体調を崩した。
共立東京病院で診察の結果、胆囊炎と判明した。治療を受けてかなり軽快したものの、念のため大磯の別荘で当分静養した。
東京へ戻ると住み慣れた紺屋町の家がだいぶ古くなったので衛生上もよろしくないと考え、翌年3月に麻布区東鳥居坂(現・港区六本木)に邸宅を新築して引っ越した。
そこは江戸湾が見渡せる景色のよい高台で、広い屋敷の庭を散歩しながら体調の回復につとめた。
明治45(1912)年7月30日、明治天皇が61歳で崩御された。兼寛は宮中に設けられた殯宮に参拝して深く頭を垂れた。
天皇大葬の日、皇居に参内した兼寛は霊柩の葬列に従っている最中に乃木希典将軍が赤坂新坂町の自邸で静子夫人とともに殉死を遂げたことを知らされた。列国将校団と面会したときの乃木将軍の悲愴な面貌が目にうかび、全身が硬直するような衝撃を覚えた。
明くる年から兼寛は全国各地の学校を巡る講演行脚をはじめた。
講演のテーマは国民衛生と精神修養、そして体育奨励といささか固い話だったが、これが好評で信州の戸隠神社をはじめ、駿府の浅間神社、あるいは郷里の宮崎など全国から講演依頼が続出した。
講演行脚は大正4(1915)年に177回、大正5年は209回、大正6年は244回、大正7年は139回を数え、目を見張るような夫の奮闘ぶりに妻の富子は体を毀しはしないかと案じていた。