(埼玉県 I)
乳母には,2種類があります。まず,「御育て」としてその子に一生関わる母親代わりの女性と,乳児期に召し抱えられて単に乳を与えるだけの女性です。1人で両方をこなす場合もありますが,お尋ねの件は後者の乳母のことだと思います。これは,「御差し」「御乳持」とも呼ばれ,大名家などでは家臣の妻や村方出身の元気な女性が選ばれている例をよく見ます。将軍家ではそうした身分の低い女性が将軍の若君に触れるのは失礼だということで,乳を与えるときに顔を隠させ,抱くこともさせなかったとされています。そのため,乳母たちはストレスですぐに乳が出なくなったと言います1)。
春日局の場合は,その実家稲葉家でつくられた『春日局譜略』に「乳養」として召し抱えられたとあるので,3代将軍となる家光に実際に乳を与えており,その後も「御育て」として家光の生涯にわたって世話をしました。召し出された時期は記録の上でははっきりしませんが,筆者は春日局が家光の実母という説をとっていますので,家光が生まれたときから乳を与えていたのだろうと考えています。
寛永18(1641)年8月3日に4代将軍となる家綱が誕生したときに,春日局が乳母探しで示した条件は,①身元がよい,②子が多い,③夫婦がそろっている,④両親が健在である,⑤年齢は21~30歳まで,という5つでした。出産時期は特に条件で示されていませんから,身元がしっかりしていて,乳が出ればよかったのでしょう。
ところが,これに見合う女性で,出仕をしてもよいという女性がなかなか得られなかったようです。候補となった川崎という女性は,大女で見苦しかったので,周囲の者が出仕をあきらめるように進言しました。しかし,川崎は何の前触れもなく登城して,家綱に縁側で乳を飲ませた後,「もはや御城下がりはできない,外聞は問題ない」と居座ったのだそうです。川崎はこのとき29歳。織田信長の末裔で,9人の子の母だったとされています。寛永17年に男子が生まれていますので,出産後1年以内ぐらいになるのでしょうか。実子は若狭(福井県小浜市)に置いたままだったようです。その後,家綱は川崎1人の乳を縁側で飲んだので,家光も川崎のことを「御乳の人」として大切にしたと言います。川崎はそのまま大奥女中として仕え続けました2)。
なお,江戸時代における乳と子どもに関する研究3)もありますので,文献を参考にしてみて下さい。
【文献】
1) 山本博文:大奥学事始め. NHK出版, 2008, p58-61.
2) 福田千鶴:春日局. ミネルヴァ書房, 2017, p151-3.
3) 沢山美果子:江戸の乳と子ども. 吉川弘文館, 2016.
【回答者】
福田千鶴 九州大学基幹教育院人文社会科学部門長/教授