脚気の医療史を顧みると、その原因がビタミンB1の欠乏であると突きとめられるまでには長い年月を要した。
わが国では中毒説、感染説、栄養障害説などが論じられ、混沌としていた。
オランダではエイクマンが1897年にバタヴィアで行ったニワトリの動物実験の結果から米糠中には白米に含まれない未知の必須栄養素があると報告した。
その9年後、イギリスのF.G.ホプキンスが蛋白質・脂肪・炭水化物と無機塩類を配合した合成飼料を白ネズミに与える実験を行った。その結果、白ネズミは精製した合成飼料では成育しないが、精製してない飼料を与えるか、または精製飼料に牛乳を加えると正常に成育することを見出した。ホプキンスは既知の栄養素以外に未知の微量栄養分があると考え、Accessory fac-torと言う名称を提唱した。
これを多くの研究者が追試してAcces-sory factorの存在を認めるようになり、これにビタミンと名づけてその概念が次第に明らかにされた。そして、ついに脚気はビタミンB1の欠乏によって起こる栄養障害であると結論づけられ、長い間の論争に決着がついた。成長促進ビタミンを発見したエイクマンとホプキンスは1929年、ノーベル医学・生理学賞に輝いた。
高木兼寛が明治天皇に召請された際、わが国の国民病である脚気の原因究明が西洋人に先を越されかねません、と危ぶんだことが現実におこってしまったのである。現代の目でみると、なぜ日本の医師たちは身近にある米糠を使ってホプキンスのような実験をしなかったのか、と不思議に思う。
大正期、北里研究所の小林六造博士はネコの胃に螺旋菌を発見、これを家兎に接種して胃潰瘍を発症させることに成功した。しかし、胃癌・胃潰瘍に関して世界のトップレベルにあったわが国の消化器病学会は強酸性の胃に菌が存在するとは長らく信じなかった。そして2005年にヘリコバクター・ピロリを見つけたオーストラリアの医師バリー・マーシャルにノーベル医学・生理学賞をさらわれたのもビタミン発見と似たようなケースかもしれない。
戊辰戦争を通じてわが国の軍陣医療に貢献した英国軍医ウィリアム・ウィリスは1881年に3度目の来日を果たした。東京での再就職を望んで来朝したのだが、思わしい雇用先がみつからなかった。
やむなく鹿児島藩士江夏十郎の娘八重子との間に生まれた8歳の息子アルバートを連れて悄然と日本を去った。
ウィリスは北アイルランドのモンマウスで医院を開業する長兄ジョージの許に身を寄せたが、1885年にアルバートをロンドンに残してシャムのバンコクにあるイギリス公使館付医官として赴任した。
バンコク公使はウィリスが横浜で知り合い親友となったアーネスト・サトウであり、彼の世話で同地に招かれたのだった。
バンコクでは病院を建設するなど内外の人の信望を得たのだが、1892年頃より体調不良を覚えて故郷へ帰り、北アイルランド・モーニンの実家を継いだ3番目の兄ジェームズの許に仮寓した。
その後も体調は少しずつ悪化して翌年になると医師から閉塞性黄疸と診断された。そして1894年2月14日、ウィリスはまどろみつつ、「Japanで過ごした日々は美しい夢のようだった……」とつぶやき、ひっそりと亡くなった。56年の生涯だった。
遺体は地元のアイルランド教会の墓地に葬られ、現在は北アイルランドのファーマナ州とアイルランドとの国境近くにあるウィリス一族の合葬碑に眠っている。
ウィリスの遺児アルバートは紆余曲折を経て来日が叶い、生母の八重子と再会することができた。やがて関西の女性と結婚して2男1女をもうけ、帰化して宇利有平と名乗った。没したのは昭和18(1943)年だった。ウィリスが英国流医師を育てた鹿児島医学校と赤倉病院はやがて鹿児島県立医学校となり、現在の鹿児島大学医学部へと大きく発展した。
恩師を追慕した兼寛はウィリス門下生と語らい、明治26(1893)年8月に「英国大医ウィリアム・ウィリス氏頌徳記念碑」と「ウィリス氏レリーフ」を鹿児島市の城山公園に建立した。
それから75年後の昭和43(1968)年4月、鹿児島大学医学部では開学25周年記念と鹿児島西洋医学開講百年記念の式典を挙行した。頌徳記念碑とレリーフは城山公園から鹿児島大学医学部構内に移された。
式典にはウィリスの孫2人とその叔母、そして英国大使代理マンダース夫妻が招待された。また文部大臣代理、武見太郎日本医師会長、小川鼎三医史学会長、兼寛の孫で東京慈恵会医科大学の樋口一成学長、そして各地の医師会・医学会関係者が多数列席してわが国近代医学の功労者ウィリアム・ウィリスの貢献を讃えた。
かつて兼寛が松山棟庵とともにはじめた成医会講習所は、その後、成医学校、東京慈恵医院医学専門学校といくたびか名称と組織を改めたのち、大正10(1921)年にわが国最初の医科専門私立大学に昇格して東京慈恵会医科大学として発足した。
昇格を記念して盛大な祝賀会が開催され、学生たちによる相撲、撃剣試合、琵琶、講談、奇術、芝居などがにぎやかにおこなわれた。その1年前に亡くなった学祖の兼寛もさぞかし祝賀会に出席して皆と悦びを分かち合いたかったであろう。
マグニチュード7.9の関東大震災が発生したのはその2年後だった。大規模な火災が生じ、大学校舎、研究所、附属病院の建物と設備、器械、器具、図書などすべてが灰燼に帰した。わずかに焼け残ったのはコンクリート3階建ての記念館とそこに収蔵された解剖・病理の標本だった。
学長以下教職員と学生は未曾有の大災害から立ち上がり、2年間で校舎と病院を再建して大学復興を果たした。
昭和27(1952)年、新制大学に移行した東京慈恵会医科大学は東京都港区西新橋に本部をおく医学部と、3つの附属病院を持つ大規模な医学の殿堂に発展して、わが国の医療に尽くしている。(了)
今回にて長期連載の幕引きといたします。このあとも日本医科大学の礎である済生学舎を創設した快男児長谷川 泰、東京女子医科大学を創立した吉岡彌生、わが国の公衆衛生の基礎を築いた後藤新平といった魅力ある医人たちの群像が目に浮かびます。しかし、ここらで筆を擱かぬと身がもちません。
顧みますと8年前、当時の本誌編集局長が私の勤める病院に来駕され、こんな話をされました。「漢方医全盛時代に杉田玄白・前野良沢らとその後継者が血の滲むような苦労を重ねてオランダ医学を導入し、患者さんの治療に没頭しました。現代の若いお医者さんたちは最新の欧米医学に裏打ちされた医療知識は豊富ですが、外来診療ではとかくパソコンに目がいき体に触れて診察してくれない、という患者さんの声があります」
さらに仰るには、「吉村 昭氏の『日本医家伝』をはじめ医療小説は沢山ありますが、列伝として著わした小説は見当たりません。杉田玄白以来の医師たちが、患者さんの訴えや視診、聴診、打診、腹診などを手掛かりに、いかに必死で診療してきたかを時代順に小説に著わして現代の若手医師を刺戟してやって下さい」
そんな大それたことは任にあらずと思いましたが、編集局長の熱心な薦めに絆されて承諾しました。しかしそのあと、「今後、本誌は縦書きから全面的に横書きに改めますので連載小説も横書きにしてください」と言われてドキリとしました。これまで私が手がけた医療小説は 『北里柴三郎 闘う医魂』、『荻野久作 法王庁の避妊法』、『山極勝三郎 ウサギの耳』(いずれも文藝春秋刊)などすべて縦書きでしたので躊躇いましたが、いざ連載を始めてみると手術場面や英字を含むカルテの記述は横書きのほうがかえって書きやすく、だんだん慣れることができました。
それからの7年間は『日本医史学雑誌』、『日本医事大年表』などを傍らに、膨大な医人たちの歩みと格闘しながらの毎日でした。ときには史料の大海に溺れそうになりましたが、全国の読者と医学部の同級生に励まされ、また編集局学術課の金子和夫氏と建持 光氏に支えられて続けることができました。末尾ながら厚く御礼申しあげます。