三英さんは一言もいわず、二階へ上がると部屋に閉じこもり鬱の虫にとりつかれたように一日中頭を抱えて座り込んでおられました。
渡辺崋山様が入獄されて3日後の未明、あなたは岸和田藩邸内の居宅の二階座敷で正座なさいます。手許には白布をきちんと畳んでおきました。そして柱によりかかり、切れ味鋭いランセッタ(外科用の尖刃刀)で頸動脈をスパッと切り裂きました。大量の出血がほとばしり、鮮血が畳や襖を真っ赤に染めました。
気配を察した奥様があわてて二階へ駆け上がってきましたが、あなたはすでにこときれていました。53年の生涯でした。奥様は血まみれで物いわぬあなたにとりすがって号泣されたそうです。
あなたの最期を詳しく聞かされて、まさかご自分の首に刃物を当てて果てようとは思いもしませんでした。しばらくは茫然自失、言葉を失いました。
帰りぎわの玄関先で三英さんの細い首筋に真っ赤な血汐が吹き上がる光景が白日夢のようにあらわれ、思わず棒立ちに立ち竦みました。当分のあいだ無常感に苛まれて絵筆などもてぬ毎日でした。
わたしはあなたの腹中に突然得体のしれぬ魔物がとびこんできて、あなたの体をぐちゃぐちゃにして魔界に引きずり込んだにちがいないと考えました。その奇怪な魔物が周辺をうろついていると思うと恐ろしくて、当分あなたの家へゆくのが憚られたものです。
あれから2年を経た現在はそんな恐怖も消え去りましたが、それでも得体のしれぬ幻影にうなされる夜もあります。
あなたが自決されたのは5月17日でしたが、親類の方々が奉行所へ届け出たのはそれより7日後で、届け書には「小関三英儀、乱心仕つり候ところ、昨廿三日夜に及び自殺候」と記したそうです。
そしてあなたが自刃なさった翌日、市中に潜伏していた高野長英殿が奉行所に自首して投獄されました。
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