「尾道を出た長英さんが上方へ向うと、往く先々で手を貸す人が現れた。京都では蘭方医の大家新宮凉庭殿と小石玄端殿に温かく迎えられ、尾張熱田では本草家の伊藤圭介殿が親身になって世話をやいた。圭介殿からしこたま路銀をせしめた長英さんは無事に日本橋の神崎屋へ草鞋を脱ぐことができたのじゃ」
伊東玄朴の回顧譚はそこでおわったが、長英が江戸へ帰ってからのことは、『大観堂』の門人たちから折にふれて聞かされた。
新入りの内田弥太郎は高野長英より1年若いだけなのに丸顔の童顔で愛嬌があり、医塾の雑用も真面目に取り組む姿がよい印象を与えるので、先輩の門人たちもいろいろと教えてやるのだった。
天保元(1830)年の初秋、神崎屋でくすぶっていた長英の許へ将軍家奥医師の松本良甫と薬研堀の外科医佐藤泰然がやってきた。 「長崎帰りの高野長英は蘭館医シーボルトからドクトルの称号を与えられた俊才である」と評判だったからである。「長英には才があるも金はない」とも聞き及んだ。
「ならば彼を扶助しよう」と良甫と泰然は自宅に出向く蘭学講習を頼んだ。
やってきた長英は、「水滴は力によらず落ちることによって石をも穿つ。これぞわが学問訓である」などと戯れをいい、酒ばかり喰らって少しも講義をしない。飲み終わるとさっさと神崎屋へ帰ってしまう。
「なんと放埒なドクトルだ。あれでは飲み逃げも同然じゃ」
呆れた2人は長英に見切りをつけて自宅講習はやめにした。
まもなく長英は神崎屋源蔵の援けを借りて蘭学塾を開くことにした。場所は麹町平河天神前の貝坂で塾名を『大観堂』と称した。天保元年11月、長英27歳のときである。翌年、母の美也を麹町に引き取り、水沢2の高野家とは正式に絶縁した。
『大観堂』は前評判がよく、松本良甫と佐藤泰然のほかに、高橋景作、福田宗禎、柳田鼎蔵といった上州の蘭方医がぞろぞろと入門してきた。
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