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高野長英(5)[連載小説「群星光芒」169]

No.4756 (2015年06月20日発行) P.70

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-17

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  • 「『尚歯会』は飢饉対策のみでなく西洋事情の研究にも力を入れる集まりだ。おぬしも一度顔を出してみては」

    高野長英に誘われて会合に参加した内田弥太郎は、渡辺崋山をはじめ蘭学者の小関三英、蘭方医で兵学者の鈴木春山といった著名な社中に接した。かれらは身分の分け隔てなく膝を突き合わせて討議を進めていた。

    席上長英は国の将来について言及した。

    「公儀のお偉方は旧態依然としてわが身の保身を図るばかりだ。世の中は急速に変わりつつある。しかるにお偉方はぬるま湯にどっぷりと浸かり、新しい時代の息吹を感じようともせぬ」

    長英の面長の顔が朱に染まり薄い両眉が釣り上がった。

    「いま必要なのは開国して西欧の政治と文化を吸収することだ。これができぬならこの国の衰退はまちがいない。開国せぬなら幕府が権力をにぎっている理由はない」

    そこまでいいきる長英に弥太郎は興奮して身をふるわせた。この話が蘭学を異端の学と看做す目付の鳥居耀蔵の耳に入れば危ない限りだとも思った。しかも偏狭狭量で執念深い“蝮の耀蔵”が『尚歯会』の動向をさぐっていることは社中のだれもが心得ているようだった。

    天保8(1837)年、長英は麹町に医塾と新居を建てて移り住んだ。

    この年の2月、大坂町奉行の与力大塩平八郎が窮民を救い幕政を批判する兵を挙げた。大塩は敗れて自害したものの、世の中は騒然としてきた。

    危機感をいだいた同憂の士が、崋山の学識を敬慕して『尚歯会』に加わった。

    西洋砲術家として名をなす江川太郎左衛門と、近年とみに頭角をあらわした勘定吟味役の川路聖謨も参加した。川路は薩摩の島津斉彬、越前藩の松平慶永(春嶽)、宇和島藩の伊達宗城といった蘭癖大名に気脈を通じる気鋭の幕臣だった。

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