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高野長英(6)[連載小説「群星光芒」170]

No.4757 (2015年06月27日発行) P.70

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-17

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  • 天保10(1839)年が明けると、内田弥太郎は高野長英からある相談をもちかけられた。

    「公儀は例のモリソン号事件以来、外国船の脅威から守ると称して江戸湾の防備固めに着手した。ついては湾岸の砲台を強化しようと『江戸湾備え場見分』を目付の鳥居耀蔵と西洋砲術にくわしい江川太郎左衛門殿に命じたのだ」

    しかし西洋流儀を毛嫌いする耀蔵は、『尚歯会』社中の江川を仕事の相棒にされてひどく腹をたてた。

    備え場を見分する要所は新たな砲台をどこに設置するかにある。それには海岸周辺の測量が欠かせない。天保10年1月、耀蔵と江川は江戸湾沿岸調査のため江戸を発った。だが耀蔵は江川と別行動をとり、誰にも相談せず勝手に配下の御小人目付の小笠原貢蔵に湾岸の測量を命じた。

    この仕事に疎い貢蔵は知り合いの大工に測量を任せたから、極めて拙劣で杜撰、見るに堪えない図面ができ上がった。

    「困惑した江川殿がどうしたらよかろうとわしに相談にやってきた」

    と長英は続けた。

    「江川殿はわしの刎頸の友である。そこでわが門人の内田弥太郎は洋式測量にかけては右に出る者がないと教えてやったのだ。おぬしは和算塾の采配で忙しかろうが、ここは江川殿のために一肌脱いでくれぬか」

    弥太郎は悦んで長英の頼みに応じた。

    公儀の海防御用を承っていたのは田原藩家老の渡辺崋山である。崋山は弥太郎を江川の手附(部下)に推挙した。

    『江戸湾備え場見分』の随行測量者に選ばれた弥太郎は、張り切って伊豆と相模の海岸へ測量にでかけた。

    痩せた江川は寒がり屋でずいぶん着込んできたが、小太りの弥太郎は吹きさらしの海岸でも平気だった。得意の和算術と測量技術を駆使して江川を助けた。大いに感謝した江川は仕事の合間に洋式砲術の勘所をみっちりと教えてくれた。弥太郎にとってこれが後年役立つことになる。

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