「だが織田秀信様は御年21のとき関ヶ原の合戦で石田三成様に加担したため、徳川勢に岐阜城を陥されて自刃なされた。落城の折、秀信様の幼い御遺児は家臣の坪井佐治兵衛殿に助けられ、美濃国まで落ちのびて脛永村の坪井家に匿われた。御遺児は世をはばかって坪井姓を名乗り、農業を営んでおられたが、代を重ねるうちに佐治兵衛殿の子孫が坪井本家を称するようになり、いつのまにか御遺児の血を引くわが家とは主従の間柄が逆転した。わが家は坪井別家といわれ小作人同様の扱いを受けて今日にいたったのだ」
兄の浄界は目をしばたたかせて無念そうにいい、さらにつづけてかつての悔しい思いを語った。
「本家には近在の娘たちが遊びにきていた。わしはその中の愛らしい娘が好きになった。娘もわしに好意を寄せてくれたが、本家の者はそれを知ると汚れた野良衣のわしを母屋に寄せつけぬようにしおった」
兄は顔をゆがめて信道にいった。
「いつかわが家門を再興して秀信様以来の無念をはらし、坪井本家を見返してやろうというのがわしの宿願である」
――無一文から家を興すには医師の道をめざすのがなによりだ。
浄界は一時そう考えたのだが、底なしの貧乏人一家は食べてゆくのが精一杯で、医師の修業など叶わぬ夢だった。
信道が3歳のとき、口減らしのために長兄と次兄は近江(滋賀県)長浜の放生寺に小坊主として出される話がもちあがった。
幼い信道は、「お兄いを、お寺にやらないで」と父母にとりすがったが相手にされなかった。
まもなく兄たちは放生寺に入り、得度してそれぞれ浄界と周蕃と名乗った。
3男の正栄も名古屋の商家へ丁稚奉公にゆかされ、姉たちもいつ身売りされるかわからないほど一家は赤貧にあえいでいた。
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