京都を抜け出た信道は、御仏とご先祖のご加護を念じながら、伏見、淀、山崎、郡山、西ノ宮、兵庫、明石、加古川、姫路、岡山、七日市、尾道と夢中になって逃げた。
山陽道を芸州(広島)城下までやってくると、もはや追っ手の心配はなかった。
道すがら、村人たちはひとり旅の若者に親切で、「西国へ学問の修業に往く」と聞くと、「飯を食ってけ」とか「泊まってけ」と勧められた。中には「ムコになれ」といわれて急いで立ち去ったこともあった。
薪割りや水汲みの手伝いをしながら神社や寺に一夜の宿を乞い、ときには名主や商家のこどもたちに四書五経の手ほどきをして路用を稼ぎつつ旅をつづけた。
豊前国中津城下に着いた信道は、さっそく中津藩屋敷を訪ねた。さいわい儒者の倉成竜渚は在宅していて5年前に江戸で教えた利発な信道をよく憶えていた。倉成塾の学僕となる許しを得た17歳の信道は、塾の一隅に寝泊まりして塾の雑用をこなしながら漢学を学ぶことになった。
中津で修業を始めて1年あまり過ぎた頃、またもや学業の足場を失う事態が生じた。藩命により師の倉成はふたたび江戸勤番を命ぜられたのだ。
気落ちした信道に倉成はいった。
「筑前福岡には儒学の大家亀井昭陽先生がおられる。豊後日田にも三松斎寿先生という立派な儒医がいらっしゃる。さしあたり斎寿先生の訓導を受けるがよかろう」
文化10(1813)年、19歳の春を迎えた信道は日田の豆田村にある『三松塾』に入門して漢方修業を始めた。
三松斎寿は蘭雪と号し、鷹揚で寛大な師匠だった。「おまえには人に尽くす天性の人徳が備わっている」と気に入られ、信道も懸命に診療の腕をみがいた。
やがて一端の漢方医に育った信道は門人仲間から、「おまえは師匠自慢の弟子じゃ」といわれるまでになった。
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