「和宮様の降嫁に当たって御所側は宮廷医を江戸へ連れて参ると主張しました。しかし侍医頭の伊東玄朴殿は、これ以上大奥に漢方医をふやすことはあいならぬ、と強く拒絶しました」
竹内玄同は垂れた目蓋を瞬いて打ち明け話を続けた。
「しかし和宮様の生母観行院様と女官長の中山績子殿は、江戸の蘭方医に皇女の脈はとらせぬ、あくまでも上方の医師でなければ、と承知しませんでした」
そこで玄朴が最初に声をかけたのは長州藩医の青木周弼だった。
青木周弼は宇田川玄真門下で牛痘接種に活躍した蘭方医である。奥医師になってほしいとの依頼状を読んだ青木は、「高齢ゆえ、お役目勤まりかねる」とひたすら固辞した。
なおも玄朴が奥医師就任を迫ると、青木はかつて宇田川塾で蘭書を共訳したことのある大坂の緒方洪庵を推挙した。
「ここで話がやや逸れるのですが、実を申せば玄朴殿は先代頭取大槻俊斎殿の後釜を狙っていました」
そういって玄同は頭取部屋の壁に掲げた亡き俊斎の筆墨を見上げた。
「しかし公儀は次期頭取にポンペ先生の許で最新の西洋医術を学んだ松本良順殿に内定していましたから、如何に上様お匙医の玄朴殿とはいえ、これを白紙に戻すのは容易ではありません」
玄朴は良順にひけをとらぬ実力者を候補に挙げて彼の頭取就任を阻止しようと動きだした。白羽の矢を立てたのは長州の青木周弼が推した大坂の緒方洪庵である。
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