文政9(1826)年1月9日、甲比丹スチューレルの一行は出島を出立した。付添検使の水野平兵衛は一行の人員や日程に落度がないかを念入りに確かめた。
甲比丹付きの通詞方は馬場為八郎、吉雄忠次郎らと筆記人4名。蘭館医シーボルトの研究助手に鳴滝塾門人の高良斎と二宮敬作、蘭画家の川原登与助(慶賀)と動植物標本を作製する出島出入り日雇いの熊吉らが同行した。ほかに荷物運搬人、従者、小使、料理人ら総勢57名の大所帯だった。
一行は小倉まで陸路を往き、下関から瀬戸内海を航行して兵庫津(神戸港)に着いた。そこからは陸路に移り、大坂を経て京都へむかった。京都では蘭方医の新宮凉庭に迎えられ、盛大な歓待をうけた。
名古屋では本草学者の水谷助六が薬草ハシリドコロの腊葉(押し葉)が洋薬のアトロピンと同様の開瞳作用があることを示してシーボルトを感心させた。
旅の間、シーボルトに診療を求めるさまざまな患者がいた。行く先々に眼病がきわめて多く、良斎は師の申し付けによりかれらを診療した。敬作は師の指図で各地の地形測量と緯度経度の測定、高山の高さ、気圧の測定をおこなった。
登与助はシーボルトに命じられて各地の風景や動植物に絵筆をふるった。饒舌な登与助は旅の合間に良斎に話した。
「検使の平兵衛殿は同行の下役に、『これまで蘭学輩は国を滅ぼす逆賊じゃと聞かされてきたが、良斎殿らは国賊どころか誠実で真心のこもった学者だ』と申しております。下役たちもそんな平兵衛殿を頼り甲斐のある上役だと噂してまして」
良斎は強くうなずき、「有難いことに平兵衛殿は法をよそにシーボルト先生があちこち動き回るのを黙認しておられる。先生の研究を黙って支えているのだ」
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