高良斎は文政12(1829)年正月15日に召し捕られ、桜町の牢屋につながれた。ここはかつて多数のキリシタンが投獄され拷問を受けた陰気な獄舎である。良斎の嫌疑は江戸参府の途上、シーボルトの命を受け各地の病人を治療し謝礼物品を受領したことだった。良斎の入牢を知った町民たちが、「先生は罪を犯すごたる人ではなか」と獄舎におしかけたが、六尺棒をもった張り番たちに追い払われた。
このたびの長崎在任奉行は水野平兵衛の主人大草能登守だった。良斎は能登守の訊問に対して堂々と申し開きをした。
「手前はたしかに江戸参府の道中、シーボルト先生の助手として診療にたずさわり、謝礼に土地の特産品などを頂戴しました。しかし、これが罪に相当するとは到底思えませぬ。また手前は高橋氏の事件に毫もかかわってはおりませぬ」
正式の訊問が終わった後、能登守は獄中の良斎と内々に会いたいと言ってきた。以前、平兵衛が「能登守様は物分りの良い御方です」といったのを思い出し、ならば手前の真意が伝わるかもしれぬと期待を抱いた。
やせ気味の能登守は身をかがめて牢格子に広い額と高い鼻梁をおしつけ、あたりをはばかる忍び声で告げた。
「前任の土方出雲守殿から、その方が出雲守殿の母上の眼病を完治させた腕のいい眼科医だと聞かされた。素直に罪案を認めれば微罪で済ませたいのだが…」
良斎はひとつ咳払いして答えた。
「江戸までの道中、手前はシーボルト先生とともに各地の動植物の生態を観察いたしました。それはわが国の素晴らしい自然を西洋諸国に紹介したいとの先生の熱い思いに協力したのであって、手前どもに罪科があるとはどうしても納得できませぬ」
能登守は長い顎をゆっくり左右にふり、
「然れども師匠が国禁を犯したからにはその方も連座を免れぬぞ」
すると良斎は奉行に詰め寄らんばかりに言った。
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