盛業中の大坂から引き揚げるのは残念だったが、親類の強硬な反対にあい、義父は郷里にとどまることにした。
土生本家の当主におさまった頃、妻の奈美は体調を損ない病臥しがちだった。いろいろと養生したが、その甲斐もなく寛政12(1800)年に他界した。
亡妻の年忌が明けて義父は安芸藩士奥玄蕃の娘智恵を後妻に迎えた。智恵は先妻の娘たちの面倒をよくみる優しい女で豊満な腰付きだったが、なぜか身籠る徴がない。親類の者が跡継ぎの件でうるさく口をはさんできたが義父は相手にしなかった。肚の中では弟の野村正友が子沢山なのでそこから養子をとればよいと決めていたのだ。
享和3(1803)年、義父は42歳で安芸藩の国詰め藩医に抜擢された。
「わしは殿様に腕を認められた。いずれ日本一の眼科医になってやる」
義父は胸を反らして吹聴した。村人たちは本人の前では愛想笑いをしたものの「あいかわらず大口を叩いて鼻息の荒いお人じゃ」と蔭でくさした。しかし口先だけでなく義父は本気で西洋眼科の考究に取り組んでいた。といっても洋文字は読めぬので宇田川榛斎(玄真)が翻訳した『泰西眼科全書』を江戸から取り寄せ、その治術の優れた点を真剣に読み込んだ。難症に行き当たると必ず榛斎の翻訳書を参照した。
文化5(1808)年、47歳の義父に運がひらけた。この年の春、盛岡藩主南部利敬侯の正室教姫が難症の眼病を患った。高名な眼科医たちの治療を受けたが、はかばかしくない。教姫は安芸藩主浅野重晟侯の最愛の息女である。懸念した重晟侯は南部侯と相談して国詰め藩医の土生玄碩を呼び寄せることにした。雀躍した義父ははるばる安芸吉田から船と早駕籠を乗り継いで江戸外桜田の盛岡藩邸までやってきた。
教姫は藩邸奥殿の病床で義父を待ちわびていた。多くの眼科医が手を拱いたように姫の病状はきわめて深刻だった。左眼瞼粘膜が糜爛して炎症が周囲に及び、難治の眼瞼膿瘍が生じていた。前医らは腫れ物に効く猪脂の練り薬を塗布していたのだが、かえって病状は悪化した。
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