文化7(1810)年の春、義父は先祖の墓参りに安芸国(広島県)へ往くといいだした。故郷に錦を飾り、かつて嘲った村人たちにいかに目覚ましい出世を遂げたか見せつけようとしたのだ。
「お身体は大丈夫でしょうか」と用人の富蔵が還暦すぎの長旅を案じた。
「なあに心配するな。わしはまだくたばりはせぬ」
そして4月下旬、義父は浅草の拝領屋敷から長柄の奥医師駕籠に乗りこんだ。徒士、薬籠持ち、杖持ち、挾箱持ち、合羽籠荷担ら数十人を従えた豪勢な行列だった。
一行を迎えた郷里の吉田村では「あの大ボラ吹きが…」と誰もが仰天して義父を大いに満足させた。先祖の墓参を終え、村の弁財天にも御礼詣をした義父は村人一同を招いて大宴会を催した。
席上満面の笑みを湛えて挨拶した。
「わしはこの村でホラ吹き玄碩と呼ばれていたが、そこにはわしなりの志があったのじゃ。そもそも志とは大きなホラ話でもある。その志を遂げるためにわしは最初から大口を叩いてわが身を鼓舞してきた。初志貫徹した今ではわしは天下第一の奥医師様じゃ。何をしようとも公方様がお許しくださる破格の身分になれたのじゃ」
どうじゃ皆の衆、と胸を反らした義父の姿に「未だ大仰な御託を並べていなさる」と村人たちは袖を引き合ったという。
先祖の墓参を終えた義父は、帰路、尾張熱田の宮宿で本草学者の水谷助六殿に会って歓談した。水谷家の薬草園も見せてもらい、薬種の新知識を仕入れて意気揚々と浅草の拝領屋敷に帰着した。
墓参の翌年、後妻の智恵が酷暑の最中に病死した。ついに継嗣に恵まれなかった義父は弟の野村正友の家族に目をつけた。そこには長男の正碩をはじめ、次男の玄潭、3男の玄昌、4男の玄益、5男の隆碩、そして6男の正鼎がいる。
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