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土生玄碩(7)[連載小説「群星光芒」146]

No.4729 (2014年12月13日発行) P.62

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-16

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  • 文政2(1819)年、玄昌は土生家の養嗣子として本丸御殿にて家斉公の目通りを得た。

    その翌年、公の世子(後の12代家慶公)が28歳で痘瘡を患った。このとき眼病を併発して難渋していたのだが、義父は投薬と温罨法を駆使して世子の眼病を完治させた。これによって本丸眼科奥医師としての名声はいっそうたかまった。長州藩と南部藩からも藩医に招かれ、それぞれ20人扶持と30人扶持を頂戴した。

    このほか諸大名や富裕商人の謝礼もあり、これに薬礼と売薬によって得た丁銀や小判が数え切れぬほど溜まった。義父は富蔵に手伝わせて金銭を数個の麻袋にぎっしりと詰め込み、寝所奥之間の天井の梁に吊るした。

    ある夜、異様な大音響がしたので跳び起きると、麻袋の1つが重みに耐えかね、中身が雪崩れのように落下していた。

    それ以来、義父は奥之間の麻袋を数個残してあとの金銭は大名や町人に貸し付けることにした。それによって医療収入に劣らず利益があがることを知った義父は「なににつけても金銭が第一じゃ」と金子の運用に力を入れだした。

    このたびの揚屋入りには麻袋の丁銀が牢役人への賄賂にずいぶん役立った。なにせ獄中では筆墨代に年25両、タバコ代は年100両も請求されたのだ。

    文政5(1822)年は玄昌が西の丸奥医師見習に引き立てられた年である。

    その翌年の5月半ば、玄昌の実父野村正友が58歳で病没した。玄昌は直ちに安芸国(広島県)安佐郡安邑の実家に向かった。

    義父は5月23日に挙行される家斉公の日光東照宮参詣に御側侍医として陪従を命ぜられていたので、玄昌が土生家の名代をつとめた。葬儀は野村家13代目を継いだ長男の野村正碩によっておごそかに営まれた。

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