大御所家斉が急逝すると待っていたかのように諸大名から不満の声があがった。
「三方領知替えは亡き家斉公の鶴の一声で決定され、しかも寝耳に水の通達だった」
ことに自らの転封を恐れた外様大名が事態を重大視した。かれらは国替えを主導した老中首座の水野忠邦に伺書を出して問い質した。
「このような通達が定法に反して内達もなく闇討ち同様におこなわれたのは承服しがたい。三方領知替えの理由についてもしかとご返答願いたい」
閣内には掛川藩主太田資始や佐倉藩主堀田正睦のように「忠邦侯は強引すぎる」と危ぶむ老中も少なくなかった。
だが忠邦は誰がなんといおうと耳をかさず、大名の抗議にも取り合わなかった。
庄内藩領民の「川南二番登り」が駕籠訴に踏み切ったのはそれから2カ月近く経った天保12(1841)年3月21日の朝だった。江戸市中に潜伏した一行は登城途中の立派な大名行列に目をつけ、
「お願いがございます」と大声を上げて大名駕籠の主に訴状を差し出した。
闇雲に決行した駕籠訴の相手が堀田正睦だったのはまったく運がよかった。ほかの大名ならば全員その場で捕えられたであろう。だが水野忠邦の強権を批判して忠邦の目の上のコブとなっていた正睦は訴状を受け取ると御供衆に、
「領民どもを早く去らせよ」
と命じて一行を無事に帰した。
藩邸留守居役の大山庄太夫と公事師の佐藤藤佐は「川南二番登り」が駕籠訴を決行したことを知らなかった。佐藤泰然も父にこの話を聞かされて、佐倉藩主の対応に温情を感じ、将軍家慶の治世となって世情にやや明るい灯がともったような気がした。
勘定奉行から閑職におとしめられた矢部駿河守も天保12年4月28日に江戸南町奉行に抜擢された。藤佐が手を打って悦んでいる姿に泰然の気持ちもなごんだ。
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