「最初の一撃は神の振ったサイコロであった。多くの死は最初の五秒間で起こった圧死だという。行政の対応が遅れた理由は簡単である。幹部は、多くは郊外の自宅にいて眠っていた。つまり一私人であった。私もそうであった」
阪神・淡路大震災に見舞われた医師、医療関係者は数多くいたが、中井さんもその一人だった。幸い自宅の被害もほとんどなく、神戸大精神神経科医局の陣頭指揮に立ち、そのときの体験をまとめたのが、冒頭の文章で始まる『1995年1月・神戸─「阪神大震災」下の精神科医たち』(みすず書房)である。
精神科医として、震災直後から被災風景が日常化するまで、自己の精神の過程を丹念に描くとともに、PTSDや精神科を中心とする救急医療体制などについて幅広く論じたこの本は、昨年3月の発売以降、マスコミで大きく取り上げられた。
「それまで、日本には天災における精神科的危機管理の資料はなかったと言っていい。特に外国向けにはね。もちろん、国内的にも理解してもらう必要はありました。これは記録に残さなければと思いましてね─」
同書の後半は、医局メンバーやボランティアに駆けつけた人々のコメントが並ぶ。当時のメモ書きやFAXなど資料も盛り沢山だ。中井さんの狙い通り、わが国の危機管理施策上、一級の資料としての評価も高い。
しかし、この本が、多くの人々に感動を与えたのは、精神科医として冷静に分析した出来事が、中井さんのもう一つの顔である翻訳家・文筆家としての感性でまとめあげられたからに他ならない。
昭和47年の飯田真氏(現新潟大精神科教授)との共著『天才の精神病理』を皮切りに、『精神科治療の覚書』『精神医学の経験』(全8巻)といった著作を次々に発表する傍ら、H・S・サリヴァン、M・バリントなど海外の精神科医の名著を訳してきた。
これら本業である精神科の業績とは別に、十年ほど前から海外の詩集の翻訳も手がけ、現代ギリシャの詩人カヴァフィスの全詩集の翻訳は、平成元年の読売文学賞・研究翻訳賞に輝いた。
この他にも、『記憶の肖像』『家族の深淵』といったエッセイ集が好評を博し、教科書や受験問題にも採用されるという本格派だ。
『1995年1月…』が、いまも十分読みごたえがあるのは、そうした中井さんの二つの技量がうまくブレンドされているためだろう。
実は、中井さんが精神科医になるまでの道のりは、ちょっと変わっている。
昭和27年に京大法学部に入学するが、戦前の滝川事件の陰が残る学部の雰囲気を嫌って、30年、医学部に転部し、34年に卒業。その後は、ポリオの最初の国内流行がきっかけで、京大ウイルス研の物理部助手に。
39年には東大の伝染病研(現医科学研)の第一ウイルス部流動研究員となるが、「この先、ウイルス・レセプターの研究は医師等の手に負えなくなるだろう」という諦めと、「精神科を覗いたら、妙に明るかった」ので、41年に東大分院の神経科医局へと転身。
以後、都内の民間病院での勤務や東大分院病棟医長、名古屋市立大医学部の精神科助教授といった職歴を重ね、55年、神大医学部教授として赴任した。
昨年、フランスの詩人ヴァレリーの代表作『若きパルク/魅惑』を翻訳したが、そもそも、旧制高校(神戸市甲南高校)に収蔵されていた原書に触れたのがきっかけ。青年時代の夢の一つを実現した。さらに最近では、ヴァレリーの詩に隠されていた黄金分割的構成の秘密を解明し(「ユリイカ」4月号に論文掲載)、国際学会への発表も準備しているという。