「終末期の患者でもコロナで面会できない。感染防御のことばかり考えていて家族が寄り添う時間が奪われてる」という批判を目にした。
事実はこれとはまったく異なる。
我々専門家はどのように家族が面会できるかを考え続けた。たとえば家族内クラスターから患者が発生したときには家族は全員、「今」感染する可能性はほぼゼロなわけで、なんならマスクなしで顔を合わせてお看取りだってできるのだ。実際、そういう提案をしたこともある。感染防御のことを科学的に考え抜くからこそ、合理的な「家族と寄り添う時間」が持てる。
しかし、こういうときに、けんもほろろに断ってくるのは感染症を専門としない非専門家たちである。曰く、「現場が混乱する」「ナースのパニックを考えると、とても許可できない」。クルーズ船の官僚じゃあるまいし、その程度のことで現場が混乱されても困るのだけど、にべもない対応でまったく議論にならない。
お亡くなりになったあとの納体袋もずっと前から不要だと申し上げていた。死体が飛沫感染させることはないのだ。家族は普通にお看取りし、葬送すべきであると。
感染症の歴史の中で、数多くのゲスい非人道的なことが行われてきたが、その「ほぼ」すべてが、科学を無視し、偏見、空気などが意思決定をさせたときだった。治療法が確立し、感染性がほとんどないハンセン病患者を長年、隔離同然に療養施設に留め置いたのも非科学的な判断だったし、あれやこれやのHIVパニックも無知が起こしたパニックだった。
そうそう、「科学的」というと多くの人は自然科学のことばかり考え、白衣着たマッドサイエンティストがメガネをクイっとしながら人の気持ちを無視してムチャクチャやるイメージ(偏見)を持っている。人文科学だって立派な科学だ。歴史学もそう。上記の非科学的な態度が起こした甚大な人権侵害も、感染症史をちゃんと学べばすぐ理解できることなのである。
そもそも「感染防御のことだけ」考えているのは、感染防御のプロとは言えない。人道面でも金銭面でも「全体」を見つつ、その中で感染防御の正しいポジションを模索するのがプロのあり方だ。少なくともそうあるべきだ。これを、ぼくは「マニアとプロの違い」と呼ぶ。ジャズのマニアは朝から晩までジャズばかり聴いている人で、ジャズのプロはクラシックや民謡、絵画や映画との関係性を見いだせる人なのだから。
岩田健太郎(神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)[新型コロナウイルス感染症][家族の寄り添い]