「セクト主義」という言葉は、左翼運動で使われた言葉なので、ここに当てはまる言葉かどうかは定かではないが、自分の所属する集団の恩恵を偏重することとして使いたい。
昔から、どこかの病院のジッツはどこどこの医局のもので、その医局でローテーションしているので、他の医局からの派遣は排除する、といったような話はよくある。多くの医師はこの話を「あるある」と思ってお読みのことだろう。
このセクト主義は医局間だけではなく、その中の臓器グループ、さらには、誰々先生グループ、といった細部にわたり存在していることが多い。そして、自分の「仲間」と認識しているグループの者ばかりを優遇する。優遇されることを期待してグループに属する者も多く、絶えることなくグループに入る人が出てくる。今までの医局の構造、医局の存在意義の多くはこんなものであったように思う。
昨今、医局に属さない医師も増えてきている。集団に属してその恩恵を受けようと思えば、おのずと、集団からの義務も発生し、期待にそぐわない人事で動かされることもある。そういう思いをするよりは、独立独歩で生きようという考えであろう。たとえ医局に属さなくても、周囲に知人、仲間が増えれば、新たなポストや採用のお声がけも当然ありうるし、人生を心配してくれる友もできるであろうから、十分に社会で生きていけるはずである。
「よらば大樹」も保険に入っているようなもので安心して生きられる人もいるであろうが、このセクト主義ゆえにセクトに属さない者の能力が正当に評価されないことは社会にとっての損失だと思う。
私は個人的には、セクト主義は大変嫌いで、存在するのは「個」と「全」であると認識している。セクトゆえに不釣り合いな恩恵を被るのもよしとは思わないし、逆にセクトに属していないがゆえに不当な評価を受けることも嫌である。これはセクトに限った話ではなく、出自や人種、性別といった個人の属性に関しても同様の話である。
出自、人種、性別などで人の扱いを変えてはいけないということは、実際に守られているかは別として、叫ばれるようになってきた。それに比べ、セクトに関してはどうだろうか。いまだに、平気で医局やセクトなどで人を判断し、評価し、人事を動かしているのではないだろうか?
集団に属していることの安心感は不釣り合いな恩恵を受け、得をするためではなく、何か自分にマイナスの要因が生じたときにそれをカバーすることで受けてほしいものである。それならば、セクトの意味はあると思う。しかし、躍進した人事や評価はあくまで個人の実力でなされる社会になってほしいものである。
野村幸世(東京大学大学院医学系研究科消化管外科学分野准教授)[個人の能力の評価][集団の恩恵]